論文を読む

高山佳奈子「違法性と責任の区別について」(川端古稀47ページ)
<概要>
・大阪地判平成24.3.16では、「急迫不正の侵害を受けている認識」と「逃げる意思」を有していた行為者につき、過失を認めながら正当防衛を成立させた。しかし防衛の意思が認められない本事例において、防衛意思必要説からは正当防衛を成立させられるのか。
・偶然防衛の事例(「急迫不正の侵害の認識」がない場合)に正当防衛を否定するならば、認識の欠如を処罰することとなり、法益保護に役立たない。
・認識の欠如への扱いという点に照らすと、故意を違法要素とする見解には疑問がある。法益侵害(危険)に結びつかない内心を違法要素とするものであり、違法性と責任の混同に至る。行為意思は主観的要素であっても外部的危険性に影響を及ぼす違法要素だが、犯罪事実の認識としての「故意」は危険性に影響しない単なる認識にすぎず、これを違法要素とすることはできない。
・「急迫不正の侵害を受けている認識の欠如」「被害者が同意している認識の欠如」は、単なる不知であり、法益侵害やその危険性を基礎づけるものではない。先述の大阪地判は、防衛意思不要説に基づいて正当防衛とされるべきである。
・責任段階には、責任非難を積極的に基礎づける故意・過失も位置づけられる。つまり「責任を基礎づける事由」と「責任阻却事由」の2段階が観念でき、犯罪論体系は、(1)違法性を基礎づける事由(=客観的構成要件該当性)(2)違法性阻却事由(3)責任を基礎づける事由(4)責任阻却事由の4段階となる。
・また、一定の範囲で主観的違法要素を承認するとともに、行為者の個別的事情(能力など)もすでに違法性の段階で考慮対象となりうる。一般人にとって可能でも行為者にとって物理的にいかんともしがたい状況を違法と評価すべきではない。この立場は、個人の尊重を原則とする憲法の理念に合致している。
<読んで>
・事実的故意が責任を基礎づけ、違法性の意識の可能性が責任を阻却する、という体系は疑問である。違法性の意識(≒反対動機)の観点から切り離された事実的故意がなにゆえに責任を基礎づけるのか。執筆者は、事実的故意と違法性の意識は責任における別々の側面から、それぞれ独立して基礎づけられるとするが、しかし、客観的事実の存在が法益侵害と評価されて違法性を基礎づけるという構造とは異なり、心理的事実の存在が責任を基礎づけるという構造は、採用できないのではないか。
・その意味で、4段階の犯罪論体系は明快な体系ではあるが、違法と責任の構造上の差異を採り入れたものとは言えないかもしれない。
・本論文でも検討課題とされていた「身体的能力と精神的能力の区別」は、やはり気になるところである。また、行為者の能力の欠如を違法性阻却と解するならば、これに対する正当防衛や幇助をどう扱うのかがさらに検討されることになると思う。
・「裁判員にも分かりやすい犯罪論体系」「憲法の理念に合致した体系」というのであれば、古典的な客観的違法論、純粋結果無価値論がよりふさわしいのではないか。『「人を殺してはならない」という禁止規範は、故意であろうが過失であろうが無過失だろうが人の殺害全般を禁止していると理解する』(56ページ)という主張に最も同意する立場は、おそらく主観的違法要素を排除するタイプの結果無価値論であろう。
 
■城下裕二「アスペルガー症候群と刑事責任」(川端古稀241ページ)
<概要>
・大阪地判平成24.7.30では、アスペルガー症候群の障害を有する被告人に裁判員裁判で懲役20年(検察官の求刑は懲役16年)の判決を言渡したが、控訴審の大阪高判平成25.2.26ではこれを破棄自判して懲役14年を言い渡した。
アスペルガー症候群判例では、(1)完全責任能力を認めたもの(2)そのうえで量刑上の減軽事情として考慮されたもの(3)他の精神障害とあわせて認定されて心神耗弱が認められたもの、がある。アスペルガー障害の犯行に対する影響は間接的なものにとどまる、とする例が多い。また「計画性がない」「社会的サポートがなく一人で困難を抱えていた」「反省の情が見受けられ難いのは障害が影響しているとみられる」などという事情が量刑上認定されることがある。
・本件原審の問題点は、動機形成過程に障害の影響があることを認めつつも「そのような動機に基づいて被害者を殺害することは社会に到底受け入れられない」とした点、また、「健全な社会常識という観点」から再犯可能性が高いとした点である。
・「司法研究」(司法研究所(編)「難解な法律概念と裁判員裁判」)などでは、犯行が「もともとの人格」によるものか「精神障害のために」よるものかによって、責任能力を判断するとする。しかしアスペルガー症候群は生まれつきの資質特性のため、「もともとの人格」自体が障害の影響を受けている。すると犯行が「もともとの人格」と親和的である(よって完全責任能力が認められる)という結論が導かれやすくなる。
・「了解可能性」という基準も用いられるが、犯行にいたる一部分が了解可能に見えることを理由に「犯行の了解可能性」が認められるという結論に至ることには慎重さが求められる。
・本件控訴審で強い殺意と犯行の計画性を指摘しているのは疑問である。殺意の強度や、計画性に際しても、障害の事実を反映させるべきであったように思われる。
・「社会的なつながりを利用するのが困難であった」という事情は、責任評価に際しては有利に考慮されるもの、特別予防に際して不利に考慮される可能性があり、それには一貫性があるかという問題が生じうる。
<読んで>
アスペルガー症候群(かつては「自閉症」の一類型とされ、現在ではASDの一類型とされる)は従来、犯行に強い影響を与えるものではなく(強い妄想が出ることはなく、ただ行動制御が困難となる)、完全責任能力が認められることが多かった。本稿での大阪地判の事例も、完全責任能力という結論は了承できるものであろう。
「了解可能性」概念や「もともとの人格」概念の問題点は、いままで指摘されてきたところであるが、広汎性発達障害という事例に絞って検討された点は、有益な議論への一石となると思う。特に、当該障害群がASDとしてひとまとめにされているのはDSMが統計基準であるという理由によるものであり、刑事責任判断に際しては、個々の症例ごとの症状や社会的位置を考慮した検討が必要となると思う。
・量刑の基礎となる事情をどう評価するかは、非常に問題となるであろう。裁判実務例を基にした量刑基準を示せば、裁判員制度の趣旨にそぐわないと批判されるからである。確かに、本人の性格や社会的状況をどう量刑に判断させるかという議論は、まさに市民の感覚を採り入れるべき領域であるとも言えるし、逆に、裁判員制度においてはそこに保安的要素や感情的要素が混入して、前科や行動歴などを過大評価してしまうとも言える。