論文を読む

岡上雅美「終身刑についての規範的考察」(川端古稀879ページ)
<概要>
・わが国の「無期懲役」は、仮釈放運用が厳しく、平均在所期間は長期化傾向にある。施設内で死亡した無期刑受刑者も多く、文字通りの終身刑となっている。
・しかし現行無期刑は「10年で(仮釈放で)出られる軽い刑」のイメージがあり、死刑存廃論に影響を与えている。すなわち、死刑と現行無期刑とのギャップを埋めるべく、仮釈放の可能性のない「絶対的終身刑」の創設が提案されることがある。
終身刑は、その非人道性が、死刑の陰に隠れている。最高裁も「死刑が非人道的でないのであれば、無期懲役刑もまた、非人道的でない」とする。しかし判断されるべきは、「死ぬまで拘禁する」制度の固有の残虐性ではないか。最高裁も、上告趣意の「死刑は苦痛が瞬間的だが無期刑は苦痛が一生継続する」とする主張に答えるべきであった。
・ドイツでは、死刑制度がなく保安監置処分が存在する。最も重い刑は終身自由刑である。連邦憲法裁判所判決では、(1)終身自由刑が基本法憲法)での人間の尊厳を侵害するとは確認されていない、(2)再び自由を取り戻すチャンスが、人道的な行刑にとって必要である、などとした。これに対して学説からは、人間の尊厳に反する性格や予防効果の不存在などからの批判がある。
・ドイツの無期刑執行状況については、多くの対象者が仮釈放されている点が挙げられる。ただ、ドイツでは保安監置処分が存在するため再犯可能性が大きい者は当該処分が課されることとなり、よって刑罰によって拘束されている者は比較的危険性が小さい者であるといえるので、日本との単純比較はできない。
・わが国の前掲最高裁での少数意見は、ドイツ連邦憲法裁判所判決と同じく、無期懲役刑の合憲の根拠を「執行中の仮釈放や恩赦などの可能性がある」としている。これは正当である。
・仮釈放運用は、現在のように厳格化するのも、一律緩和するのも妥当ではない。特に日本では保安処分制度がないために、再犯の危険性が高い者にとっては、自由刑が、(責任刑の枠内で)隔離による再犯防止の役割を担わざるを得ない。その一方で、再犯危険性の少ない者には積極的に仮釈放を認めるべきである。犯罪時の事情(検察官や被害者、遺族)の意見は、判決時に裁判官が既に考慮しているので、仮釈放決定の判断では重視すべきではない。さらに、受刑者の釈放後の受け入れ態勢や、施設内での教育指導プログラムの充実も、課題となる。
・また、無期刑の最低服役期間は10年であるが、これが実際には皆無であるにもかかわらず、規定があるゆえに「軽い刑」のイメージが存在するのであれば、服役期間の引き上げも検討されるべきである。さらに、仮釈放により事件と向き合う機会がなくなるわけではなく保護観察に付されることになるという知識も必要になろう。
<読んで>
・日本の無期懲役が「基本的に終身の懲役を意味する」(たとえば曽根威彦執筆「基本法コンメンタール改正刑法」29ページ)にもかかわらず一般に軽い刑のイメージがあるというのはその通りであろう。日常用語の「無期」は「期限をさしあたりは定めない」という意味であり(「無期停学」など)、名称を含めた制度改革がないと、軽い刑のイメージは払しょくされないのではないか。
・刑法改正の綱領(1926年答申)では既に「死刑、無期刑に該る罪を減少すること」「仮出獄の要件を寛大にし其の他仮出獄に関し受刑者を保護する規定を設くること」などが定められており、それらは保護観察などと異なり結局立法に反映されていない点も、問題となると思う。なお、無期刑に該る罪の減少については、有期刑をどれだけ加重・併合しても無期刑にはならない以上は、無期刑を宣告するためには「無期刑が規定されている罪」を選択する必要がある、という理由で困難であるかもしれない。個人的には、「殺人のうち犯情の重いものには死刑」というコンセンサスと同様、無期懲役に対する具体的なコンセンサスがあってもいいと思う。
・比較対象として、ドイツ以外の制度・運用の分析も有益だと思う。ドイツは強度の保安監置制度があるために、やはり日本の運用とは比較しにくいのではないか。たとえば北欧諸国の行刑運用が参考となるかもしれない。しかし制度論については、ドイツでは死刑制度を廃止してもなお無期自由刑に仮釈放制度を義務付けている点や、それにもかかわらず人間の尊厳の観点から無期自由刑に対する批判も大きい点などは、やはり非常に参考になる。*1
 
■平野潔「過失犯における違法性の認識の可能性」(川端古稀387ページ)
<概要>
故意犯における議論と比して、過失犯における違法性の認識および禁止の錯誤に関する論考は、多くはない。その原因は、一つには違法性の錯誤の問題が故意阻却の成否の問題として論じられてきた点にあり、もう一つには、責任説において違法性の認識が故意過失に共通の責任要素であるゆえに過失犯独自に検討されることが少ない点にある。
・故意説に従う場合には、過失犯における違法性の認識を論じる余地はないように思われる。ここで違法性の認識「可能性」については過失犯においても検討されうるとする立場もあるが、それを故意説と位置付けることは困難である。
・責任説からは、故意と過失の責任非難の差異は量的なものにとどまる。川端説では、過失犯の場合には構成要件的結果を実現する意思が存在しないから、違法性の現実的認識は存在しえず、従って故意犯より責任非難の程度は軽い。また実現意思がないので違法性の認識可能性も相対的に低く、やはり責任非難の程度は軽くなる。
・ドイツでは、過失犯における禁止の錯誤を巡る議論がある。認識ある過失の場合には、危険不法の認識可能性があるとする(ルドルフィ)か、構成要件実現の可能性を認識しておりそこから適法行為への動機を得ることができるとする(ロクシン)。しかしアルツトは、過失侵害犯においては危険は通常許されているので、危険の認識に警告機能(提訴機能)を付することはできない、とする。アルツトは、不法の認識(法的に許された危険を超える認識)がありつつ特別な正当化事情を誤信していた場合にも、そもそも過失犯では構成要件要素の認識と違法要素の認識を分けることは困難であるから禁止の錯誤は存在しないとする。
・認識なき過失の場合には、「行為者が構成要件的実現を認識していれば」不法を認識できたかどうかを判断する、とされる。この仮定的判断に対してアルツトは、まず認識なき過失を構成要件的錯誤と解して禁止の錯誤を仮定的想定するのは正しくないとし、また仮定的判断にはあいまいさが残る、とする。結局、認識なき過失の場合にも禁止の錯誤は存在しない、とする。
・過失犯を「故意の可能性」と捉えるのではなく、注意義務の点で故意と過失とは本質的に異なるという立場を採れば、錯誤論の過失への転用はできない。故意に提訴機能を認めるからといって、過失犯にも要求されることにはならない。過失犯では、客観的注意義務に反する行為を対象にして違法を評価する認識の可能性が問われるべきである。
・認識ある過失では、結果発生に至る可能性を認識しているので、反対動機形成が可能になる。認識なき過失の場合には、構成要件該当事実を認識していれば(自己の行為が客観的注意義務に反する行為であることを認識していれば)反対動機形成が可能であったか否かを検討すべきである。
<読んで>
・「注意義務の点で故意と過失とは本質的に異なる」としながらも、判断構造について、認識ある過失と認識なき過失の間で差異がある一方で故意と認識ある過失の間には連続性がある、とするのは議論の余地があると思う。違法性の意識の本質を「契機」と捉え、行為者の認識をその契機へと結びつけていく(私もその方向に賛成である)のであれば、認識ある過失における「認識」は故意犯における「責任故意」とは異質のものであるとしなければ故意と過失との質的差異を導けないであろう。
・認識なき過失と無過失との差異(つまり過失犯の本質)を「認識可能性」の有無に求めて、かかる「認識可能性」を「違法性の認識の可能性」と直接に関連付けるというのが古典的な責任説の立場(の一つ)であるが、それは現在の過失犯論と整合性が取れるのか。なお検討する必要があると思う。

*1:論文著者は別論文(「アメリカ合衆国における終身刑について」刑事法ジャーナル14号14ページ注33)で、「(アメリカの)恩赦や司法取引あるいは処遇方法などと切り離して、絶対的終身刑のみの導入は、ハード面のみをわが国に持ち込むことを意味し、アメリカ合衆国以上に過酷な厳罰化を実現する虞がある」と指摘する。