論文を読む

■箭野章五郎「精神の障害にもとづく錯誤の場合の医療観察法における「対象行為該当性」判断」(刑事法ジャーナル41号70ページ)
<概要>
・精神の障害に基づく錯誤において、故意が欠けると判断されれば、医療観察法の対象行為該当性も欠けることになり、医療処遇がなされなくなるおそれがある。
・東京高判平成20・3・10では、殺人・放火の故意につき構成要件故意は認められるが責任故意が欠けるとした。「どの罪を構成することになるのかを振り分ける契機」を果たすのに足りる認識があれば構成要件故意は認められるが、客体が「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」であるという認識を有していれば、それらを総合して「人」であることの認識を持っていたと推定することができる。しかし、責任要素としての故意までは、認めることができない。ここで、責任故意が欠ける者が医療観察法の対象者に該当しないとするならば、医療観察法の適正な運用・解釈に大きく背理する。
・かかる判決に対しては、人との類似性を認識しているだけで「人そのもの」であるとは認識していないのではないか、構成要件故意としても「人」の認識は必要ではないかと批判される。また、幻覚妄想が著しく「人のようなもの」とすら認識できていなかったときは、構成要件故意も認められなくなるのではないか、と指摘される。
・最決平成20・6・18では、対象者が認識した内容に基づき故意を判断するのではなく、対象者の行為を外形的・客観的に考察し、「心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば、対象行為該当性が認められるか」を判断するべきである、とした。
・かかる決定に対しては、故意は行為者自身の認識の有無を問うものであって通常人を仮定するのはいわゆる「客観的故意」の考え方である、あるいは、仮定的判断を取り込むことは故意に過失的要素を取り込むことになり認識可能性によって故意を肯定することとなる、などと批判される。
・学説は、(ア)精神の障害に基づく錯誤は考慮しないとする見解(医療観察法の目的の重視)、(イ)責任要素についてのみ変容を認める見解、(ウ)主観的要件を厳格に要求する見解がある(立法的措置の必要性の強調)。(ア)の見解においても、「実現意思」は他害行為の危険性を基礎づける部分であり当該行為者の主観面を前提として判断するとされたり、「意思性」の欠如する行為は刑法上の行為や医療観察法対象行為に当たらないとされることもある。
医療観察法の対象行為を殺人や放火などに限定する論拠は、「被害の重大性に加えて、他の行為に比べて心神喪失者により行われることが比較的多いから、医療の確保を図ることが肝要である」とされる。なお、昭和56年の刑事局案(現行法と同様に、処分の対象行為を殺人や放火などに限定する)では「市民生活に与える不安の性質及び程度」との説明もある。ここで、精神の障害に基づく錯誤については、被害の重大性、医療の必要性、市民生活への不安という点で、故意を満たす場合と等価と評価することは可能である。等価値性を要求することによって、範囲の不当な拡張も封じられる。
・なお、強制処遇の正当化根拠の対立(パレンスパトリエ的考慮か再犯可能性か)によって、錯誤の処理に、基本的に差異は生じない。いずれの立場の論者からも、錯誤の場合に対象行為該当性を肯定する見解が提示されている。
・また、対象行為が故意犯であることから、故意(などの主観的要件)が備わっているうえで責任無能力状態になりうることは想定されている。よって、故意(事実認識)と責任能力(評価能力)は分断されている。そうだとすれば、責任能力を故意の前提とする立場は、排斥されているといえる。実際、責任能力を故意の能力とする厳格故意説からは、医療観察法が対象行為に故意を要求していることにつき欠陥であるとの指摘がある。
・ここで、制限故意説が、違法性の意識の可能性と責任能力のうちの認識能力と内容上重なるのであれば、責任能力が故意の前提となることになる。これを回避するには、違法性の意識の内実を異なるものとしたり、違法性の意識の不可能性の原因を精神障害以外のものとしたりすることが考えられるが、そうした理解が適切かどうかは改めて問われる。
・責任説からも、「故意」(意味の認識を含む)と「違法性の意識の可能性」は区別されると解し、かつ、「違法性の意識の可能性」は個々の行為について問われるとし、加えて、責任能力における「認識能力」と「違法性の意識の可能性」は内容上重なるが責任能力は精神の障害のみを原因とする、とするならば、精神の障害による錯誤では、「故意」が欠けることを経由して当該行為についての違法性の意識も欠け、それが精神の障害によるものであるから責任無能力である、という阻却事由の競合は考えられる。
<読んで>
・「医療観察法と故意」の問題である。錯誤による行為者につき、「処遇不可」としないのであれば、「刑法と医療観察法で主観要件を分ける」ことになる。その分け方が「構成要件故意と責任故意」であったり、「刑法の故意と医療観察法の主観要件」であったりするのである。ここで問題とされているのは、それらの分け方が犯罪論体系と整合するかどうかである。
・まずは、故意の内容が問題となる。故意とは行為者が実際に持つ主観面である、とするならば、最決平成20年は「故意がないところに一般人基準で故意を作り出す」立場であるとして批判されるであろう。一方で、故意とは行為者の種々の主観的断片のうちどれを採り上げてどう組み合わせて評価するのかという判断過程である、とするならば、最決のような故意の判断構造もありえることになる。しかしその立場は「故意の過度の規範化」として批判されうる。
・個人的には、対象者の主観面など本人にもわかっていないことも多く、また「刑法的評価」という評価基準がないと存否判断もしようがないと思う。例えば、リンゴの実を見ている者は「リンゴである認識」を持っている。しかし、赤いものである認識や果物である認識を持っているかどうかは、判断しようがない。「赤いか?」と聞かれたら「赤い」と答えるが、聞かれるまでは、見ている者の脳内言語に「赤い」という言葉が存在するとは限らないのである(物には、属性が無数に考えられる)。ここで「果物を食べるなと言われたのにリンゴを食べた」者がいるとして、その行為者の脳内言語を探ることにそれほど意味があるわけではなく、むしろ「リンゴに糖分があることを彼は知っていた。そしてリンゴは偽果だが果物だ。」という判断者の判断過程に意味がある。その判断過程には、規範的判断要素が多分に入る。
・本論文では、強制処遇の正当化根拠の対立と錯誤の処理との連関は薄いとするが、これはやや疑問である。このタイプの連関づけは、公式化・硬直化して議論の進展を妨げることになることが多い、ということはわかるが、それでも、危険性を持ち出すのであれば対象行為は重大結果や犯罪行為である必要がなく(結果の重大性と危険性(と病状の重さ)が相互に独立であることは、多く主張されている)、刑法上の主観的要件と異なる対象行為成立要件を持ち出すことに躊躇はなく、またその一方で、刑罰の代替としての処遇を考えているのであれば、刑法上の要件を満たすという前提を置かれやすくなるであろう。純粋な医療必要性を要件とするのであれば処遇決定に裁判官が関与する必要はないのである(精神保健福祉法を参照)から、やはり医療観察法は刑法上の要件と多少なりともリンクするはず、という考えがあってもいいと思う。
・シンプルな立場の一つは、責任要素はすべて反対動機を乗り越えたことへの非難の観点から説明され(擬制にせよ実在にせよ、意思自由が前提となる)、事実認識の可能性があれば反対動機形成可能性がありえる、としたうえで、精神障害の場合にはその障害のゆえに「非難することができず」、故意がない場合にはその事実認識可能性だけでは「反対動機形成可能性が弱すぎる」とする、というものである。ここで、精神障害の場合にもその主観的状況では「反対動機形成可能性を認めるには弱すぎる」とするのであれば、「精神障害ゆえの錯誤」は故意がない場合と同様に処理されることになる。一方、精神障害は反対動機とは異なる観点から責任阻却されるとするのであれば、「精神障害ゆえの錯誤」は故意阻却とは異なる処理をしやすいことになるであろう。