論文を読む

■城下裕二「医療観察法における対象行為の主観的要件について」(岩井古稀99ページ)
<概要>
・「医療観察法と故意」の問題。立案担当者によれば対象行為は「構成要件に該当し違法ではあるが責任の有無は問わない」とされる。しかし法の目的に照らして、故意をはじめとする責任要素ないし主観的要件が当然に不要となるわけではない。
・責任前提説は、責任能力を当該行為から相対的に独立した行為者の一般的能力と理解する。ここでは責任無能力者には責任の前提が欠けることになるので、責任要素たる故意も否定されることになる。これに対して、責任要素説は故意が認定された後に責任能力の有無を判断することになり、責任無能力者にも故意が認められる。本稿も、責任要素説を妥当と解する。
・東京高判平成20・3・10(id:kokekokko:20150804)では、構成要件故意を肯定したうえで、責任故意の判断に先行する責任能力判断により無罪とした。対象行為該当性を肯定するためには、「犯罪の成立を認めるに足りる故意」(責任故意)は不要だが「一般人であれば犯罪事実の認識を有するに至るであろう程度の事情」の認識(構成要件的故意)は必要であるとする。しかし、故意の体系的位置づけについて一定の見解を前提としなければ医療観察法の解釈を導くことができないというのは、問題であると思われる。また、こうした立場を前提としても、本件のように「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」の認識から直ちに「人である」という意味の認識を有していたと結論付けてよいのかは問題である。人との類似性を認識しているだけであり、人そのものであるとは認識していないのではないかという疑問が残る。さらに、この判決の見解であっても、さらに幻覚妄想が甚だしい場合には、構成要件的故意が否定されることになるが、医療観察法の趣旨に叶っているかは議論の余地がある。
・最決平成20・6・18(id:kokekokko:20150804)では、対象者の認識した内容に基づいて判断すべきではなく、心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば対象行為を犯したと評価することができるかどうかの観点から判断すべきであるとする。医療観察法に対する政策的考慮から、故意の体系的位置づけにかかわらず説明可能であるという点で、この結論は支持しうる。
・最決は、実際に存在している(あるいはその可能性がある)認識内容を推認しようとするものではない。対象者が仮に幻覚・妄想に支配されていなかったとすれば、どのような認識・意図に基づいてその行為を行ったと「想定」できるかが問題とされている。
・前提として、医療観察法は、犯罪防止を目的とする刑事法ではなく、対象者の社会復帰を目的とする精神医療法である。他害行為は、非難の対象ではなく、将来に向けての対象者の医療・保護の必要性を示すものである。他方、医療観察法成立前から、心神喪失心神耗弱と判断された者について「故意」「確定的故意」が認定されているものも多い。また、医療観察法では「刑法39条に規定する者」とされており、これは、「責任能力以外の責任要素は備えている者」を意味していると解することができる。ここでは例外的に、本来の意味での故意を有していない者でも、政策的考慮に基づき、主観的要件の判断方法について一定の修正を施すことが許されるものと解される。
・以上の点から、(a)対象者が心神喪失心神耗弱の状態にない者と同様の認識を有していた場合、その認識内容に基づいて主観的要件を認定し、(b)対象者が幻覚・妄想などの心神喪失の原因となった症状の影響下で認識しそれに基づいて行為に出ていた場合、当該他害行為を客観的・外形的に考察し、故意によるものといえるかどうかを判断することになる。これは、主観的要素の「擬制」ではなく、客観的要件が充足されている場合に対応する一般的主観的要件を決定する判断方法である。このアプローチは、心神喪失等の状態にある場合には故意の判断方法に修正を施すという意味で「責任前提説」的な立場とも評しうるが、これも政策的考慮を優先させたことによる例外的取扱いとみることが許される。
・また、政策的に考慮外に置かれるべきは「認識面」にかかわる部分であり、認知対象に対する「実現意思」については当該対象者の主観面を前提として判断することが可能である、という論者もある。他害行為の危険性を基礎づけるのはこの実現意思の部分である、との理解に基づくものである。しかし、ここでいう実現意思は「対象者の認識した内容を実現しようとする意思」であるから、対象者の認識内容を実現意思の間には、連続性・関連性を有する。両者を截然と区別できるかは疑問が残る。さらに、実現意思が危険性を基礎づけるとの理解についていえば、本法の立法経緯(「おそれ」の文言の削除)および1条の「社会復帰の促進」の目的からみて、本法は、対象者の利益のためのパレンス・パトリエの視点から根拠づけられていると解される。
<読んで>
・「医療観察法と故意」の問題につき、医療観察法を医療法(福祉法の一部)と位置付け、その主観的要件も刑法とは異なるとする立場である。それならば、医療観察法の対象行為がなぜ刑法上の犯罪であるのかという点、処遇決定になぜ裁判官が関与するのか(決定手続きの法的正当性の担保のためならば、指定医師の決定を裁判所が許可するという形式でいいはずである*1)という点が改めて問われよう。
・純粋な医療法であるならば、対象者に責任はおろか違法性や構成要件該当性が欠けていても問題はないはずである。おそらく、医療保護必要性の判断基準の一つに犯罪行為該当性を採り入れる、というものであるのだろう。しかし、再度犯罪を犯さないように医療で保護するというのであれば、社会が精神障害者に寄せる主関心が「犯罪を犯すかどうか」であるということになろう。ただこの問題は、医療観察法自体についての問題点であるから、今回は深くは立ち入らない。
・東京高判では、当該行為者に構成要件故意の存在を認めたが、それに対して本稿は、「人である」という意味の認識を有していたと結論付けてよいのかは問題である、とする。意味の認識に対しては、日常的概念の法的概念への翻訳であるという立場もあるが、その立場だと、判断者(裁判官)のレベルでは裸の事実認識と意味の認識との間に齟齬はないのであり、「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」という裸の事実的認識を裁判官が「人である」意味の認識であると並行評価(翻訳)する、とも考えられるのではないか。

*1:裁判所の関与自体が処遇に保安要素を混入させる、という批判は法制定当時に多くされた。