論文を読む

■伊東研祐「故意と行為意思の犯罪論体系的内実規定」(川端古稀269ページ)
<概要>
・最決平成16・3・22(クロロホルム吸引事件)では、被害者を昏倒させた(第1行為)うえ2キロ離れた場所で自動車ごと海中に転落させた(第2行為)が、被害者は第1行為で死亡していた可能性がある。ここで、第1行為については殺害の故意はなく第2行為については故意に対応する客観的事実(死亡)がないと構成するならば、いずれの行為についても殺人罪が成立しないことになる。最決は、両行為は密接であり一連の殺人行為であると評価した。両行為が同一構成要件に包摂されているならば、本件は純粋な「因果関係の錯誤」が存するに過ぎない。・第1行為時には、惹起を意図していない第2行為の結果について、何故に故意を認め得るかという点については、本決定は具体的な理由を詳細には説示していない。
・第1行為の時点では内実の意思的要素は全く認められないのであるから、故意に意欲や希望までは要しないとはいえ認容は必要であるとする判例の立場を考慮すると、違和感がある。しかし判例は本当に意思的要素を(構成要件的または責任)故意の要素として捉えているのであろうか。抽象的法定符合説・数故意説も、そのような個別の結果発生に対する意思的要素を要求していては成立しえないであろう。
・殺意などの意思的要素は、犯罪論体系における構成要件以後の段階に属する要素ないし規準である故意・過失に先立って存在する「行為」を構成するものとして要求されている、と分析・理解することができる。この「目的達成意思」を、判例は無批判的に故意の要素として議論してきた。
・行為能力・行為意思は、最終結果の実現それ自体だけに直接向けられた意思というよりは、目的・目標の実現に向けて諸々の因果連鎖・因果系列を設定・利用する能力・意思であるから、途中の手段的・個別的行為の制御・実現の意思は、全体的コンテクストの中で位置づけられるべきである。
未必の故意と認識ある過失の区別に関して筆者は従来から、生じた構成要件的結果の表象を有して行為する場合が未必の故意であり、いったんは生じた表象を否定・破棄して行為する場合が認識ある過失である、としてきたが、認容などの意思的要素は、意思の強度の差として現れる。
・また、因果経過の認識に関しては、行為意思は構成要件に先立つものであるため、責任主義の要請を満たすためには故意の要素として因果経過の認識が改めて必要とされるべきである。因果経過の錯誤については、表象と事実とが特定のコンテクストにおいて社会的に別個のものと捉えられない限りは結果は帰属する、ということになろう。
・さらに、故意に意思的要素を含める立場は、それを責任の実体をなすものと捉え、責任故意をも認める。しかし、客観的要素の認識によって喚起される違法性の意識から規範的障害を認識したにもかかわらず行為した事に対する非難を責任とする規範的責任論からは、行為の要素として既に具備されている意思的要素を故意の要素として重ねて要求する必要はないし、それを責任に位置づける必要もない。責任判断は故意・過失で共通なものであるとする理論的前提からすれば、意思的要素を責任に位置付けることは、責任要素論のみならず犯罪論体系的にも論理的整合性を欠く。
・原因において自由な行為に関しては、クロロホルム事件と類似して、結果行為の結果の認識ないし表象を以て原因行為の故意として足りると捉えられる。結果行為の際に機能すべき意思的能力は、その不機能化を原因行為により既に担保されているのである。
<読んで>
・規範的責任論を突き詰めると、意思的要素がそれ自体責任を基礎づけるのではなく、事実的故意の提訴機能に着目して責任を構成することとなる、というのはその通りであろう。意思的要素がどの段階に位置づけられるかはともかく、これを欠くからといって責任が認められないとはならない、というのもこの立場からはその通りであると思う。
・しかし問題は、故意と行為意思の区別・切り分けである。「客体が人である」という認識は故意であるが、「殺害する」という行為者の主観面が、認識といえるか評価といえるか、あるいは認容か意図かというのは、簡単には結論が出ないであろう。クロロホルム事件では殺害意図が強いためにそれが第1行為の殺意として評価されている部分があるが、「殺害する」という行為意思、「溺死させる」という故意と分けていいのかどうか。個人的にはこれは、故意よりもむしろ行為意思の側の定義の問題に属すると思う。また、構成要件的・法益的可分性も検討課題となる。違法性の意識では要求されている構成要件的可分性は行為意思にも要求されるのであろうか。
・次の問題は、犯罪に向けられた行為者の積極的な認識である。規範的責任論からは、この認識も、いったん規範的なフィルターに通して再評価する。行為者の生の認識を責任要素とはしないという立場は強く理解できるが、ではその規範的なフィルターの中身は何か。すべて反対動機形成可能性=他行為可能性の判断材料として一元的に捉えるというのがシンプルな考え方であるが、それが適切なものであるかはなお検討が必要であろう。