論文を読む

■大庭沙織「刑法上の故意と強制医療の対象行為該当性要件としての故意」(刑事法ジャーナル41号79ページ)
<概要>
・刑法上の故意について、規範化説は不合理な認識を持った行為者の故意について妥当な結論を得ようと試みるものである。行為者が有した外形事実が一般的経験則上高い危険性を徴表するものであり、一般人であれば犯罪事実の認識を形成したといえる場合に、故意を認める。「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」の認識を形成させるような外的事実を知覚していれば、「人でない」と思って殺害行為に出たとしても、殺人の故意が認められる。
・規範化説は、犯罪事実について真摯に判断しなかったことにあらわれた他人の利益への無関心に対する非難が、根拠である。これは、故意の提訴機能の無視に強い非難が向けられるという説明を徹底したものである。というのも、規範化説は、従来認められてきた違法性の意識を可能にする提訴機能よりも一段階前の、犯罪事実の認識を可能にする提訴機能の無視を厳しく処罰するからである。
・しかし規範化説の故意理解は支持できない。過失犯にとどまる者に対して故意犯への強い非難を向けるからである。外的事実の知覚に認められる提訴機能は、なお間接的なものである。行為者自身が「人を殺す」と認識していなければ「人を殺すな」という規範には、なお直面していない。
・それでもなお、一般人であれば犯罪事実の存在の認識を形成するような外的事実の知覚に着目した点は、注目に値する。故意が外的事実の内心への投影である以上は、外的事実とのつながりが必要なのであり、このつながりは、外的事実が犯罪事実の存在を徴表する場合に、行為者の犯罪事実の認識が外的社会の内心への投影であると認められる。故意を認めらためには、犯罪事実の認識が最終的に形成されてさえいればよいわけではなく、その認識が本当に故意として評価されるにふさわしいものでなければならない。心配性であるがゆえに自己の行為の危険を過大評価して犯罪事実の認識を持った者は、その認識が外的事実につながりを持たないため、故意は認められない。
・「医療観察法と故意」の問題を検討すると、まず、医療観察法は非難を前提としておらず、刑法上の故意犯処罰とは大きく異なる。そのことは、対象行為該当性の判断にも影響する。医療観察法の目的に鑑みれば、事実を正しく認識できないような重篤な者ほど強制医療の対象とするべきであるということになる。しかし、医療観察法が刑法の規定を用いて対象行為を限定している以上、対象行為該当性要件を刑法上の故意と全く別物と理解するのは、現実に即していない。
・刑法上の故意との重なり合いを求めるならば、認識形成プロセスとしての故意の下限である外的事実の知覚をもって対象行為該当性要件としての故意とするのが妥当であるように思われる。東京高判平成20・3・10(id:kokekokko:20150804)の行為者ように「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」と知覚した後、幻覚妄想により最終的に「人である」との判断を下せなかった者にも、対象行為該当性要件としての故意が認められる。ここでは犯罪事実の認識は要求されないが、犯罪事実の認識は故意犯処罰の強い非難を根拠づけるものであり、強制医療の対象行為該当性要件としての故意としては要求されないとすることは可能である。
・外的事実の知覚は、弱いとはいえ提訴機能を有している。外的事実の知覚は、行為者に対して行為の危険性を訴え、ブレーキをかける性質を持つ。精神障害ゆえに提訴機能に応じることができない者は、もはや外的事実によるはたらきかけは意味をなさない。
・また、外的事実の知覚は、社会復帰のためにも、対象行為該当性要件として必要である。外的事実の知覚すら欠く者は、自己の行為に向き合うことができず、何をしてはいけなかったのかを理解することができないと思われるからである。
<読んで>
・行為者の主観面における各段階が、どの程度、提訴機能と関係するのかについて整理してみると、まず筆者は、外的事実の知覚による提訴機能が間接的なものであるとしている。しかし厳格故意説のように、事実の認識の提訴機能も間接的であるとは考えないようである。限界づけのラインは、「人」という言語が脳内に存在していないと「人を殺すな」という規範に直面できないというあたりであろうか。規範化説の出発点は、主観面で積極的に「人」という可能性を排除した(積極的誤信)行為者はともかくとして、無関心(思考の焦点外)であるがゆえに「人」であると考えなかった行為者が故意犯とされないのは不当である、という思考だったのであるが、筆者は、(少なくとも殺人罪については)「人」という概念の認識がメルクマールであるとしているのかもしれない。もちろんこのようなメルクマールが財産犯や薬物犯罪などにも妥当するかどうかは問題ではある。
・「医療観察法と故意」では、医療観察法での対象行為が刑法上の行為であるという限度で、2つの法領域での主観面での重なり合いを要求しているようである。その観点から筆者は、「行為意思」を対象行為該当性要件から除外している。しかし、行為意思は故意とは異なる主観的要件である、という理解も存在するのであり、行為意思が対象行為該当性判断にとって不要かどうか、ここから直ちに導けるかは疑問である。
・また筆者が挙げる「外的事実の知覚」は、幻覚妄想状態においては存在するとは限らない。「何かを見たのでそれを包丁で刺した」というレベルの認識は一般人に対しては「その「何か」というのは「人」ではないか」ということを想起させるのであるが、幻覚状態であればその想起は不可能であろう。また制御無能力者であれば、「人」であることを確信している場合もありえる。責任無能力者の現実の主観的要素を用いて法的要件とすることが困難であるがゆえに、城下説のような最決平成20・6・18(id:kokekokko:#20150804)への評価があるのである。
・なお、刑法学での用語について少し気になる点を挙げる。鑑定書や判決文で登場する「幻覚」は、外界の対象がない知覚を指す。例えば「壁から人の手が出ている」というものである。幻覚の一種である幻聴は、聞き間違いではないのである。ゆえに、「幻覚に支配されている行為者」には、主観面に対応する外的事実は存在しない(壁は存在しているが、手は存在していない)。なお、感覚情報の誤体験は「錯覚」である。
・ちなみに、「幻覚妄想状態」は、精神保健福祉法28条の2(自傷他害の判定基準)等で定められている状態であり、精神障害者通院医療費判定基準などにも項目がある概念である。『国際疾病分類ICD−10の統合失調症分裂病型障害、妄想性障害、症状性を含む器質性精神病、精神作用物質による精神および行動の障害などでみられる病態である。』とあるとおり、精神疾病と密接に結びついている概念であり、認知障害意識障害とは異なる*1
医療観察法の目的からは、重篤な者ほど強制医療の対象とするべきである、とするが、ここでの「重篤」は治療困難性を指すのか(であるならば医療観察法の要件は精神科医の診断によるべきであり犯罪行為という要件は不要である)、それとも他害行為危険性を指すのか。重篤な者ほど「医療」の対象とすべきというのではなく「強制」医療の対象とすべきというのであれば、医療観察法の目的を保安と把握する考え方に通じることになろう。ただ、その考え方(医療観察法の本質を保安処分、あるいは懲役代替と捉える立場)であれば、刑法上の要件を医療観察法にも要求するという発想に親和的であろう。
・外的事実の知覚すら欠く者は、「自己の行為に向き合うことができず、何をしてはいけなかったのかを理解する」とあるが、これでは教育刑との相違が不明になるのではないか。医療観察法の対象者に必要なのは治療であって、自己の行為に向き合うことや何をしてはいけなかったのかを理解することではないはずだからである。

*1:これらの点は、私が刑法の人に言おうとしたことがあるのだが、全く関心を示されなかった。