事実的故意と違法性の意識

前回(id:kokekokko:20090428#p1)のつづき。

南論文(承前)

5.責任説の再構成(承前)
5−3.事実の錯誤と違法性の錯誤の区別における形式的判断と実質的判断
・故意の提訴機能: 故意の提訴機能を要求する理由として、事実の錯誤と違法性の錯誤の区別の実質化が指摘されている。
・指摘: 事実の認識を、「当該構成要件の違法性の意識を喚起し得る事実」の認識であったり、「当該違法性の意識が喚起可能となるような事実の意味内容の理解」と考える。
・南からの批判: 区別を実質化する目的は、事実の認識に故意の提訴機能を要求することの正当化にはならない。実質化するよりも、形式的・概念的に両者を区別した場合のほうが、故意の内容が明確となり、事案の解決も容易である。
 
・たぬき・むじな事件: 大審院は、たぬき・むじな事件を事実の錯誤とし、むささび・もま事件を違法性の錯誤とした。
・南説から: 故意の内容を実質的に判断することを否定する立場からは、両者とも違法性の錯誤となる。
・ともに、客観的にたぬきと同一である「むじな」という動物の認識、客観的にむささびと同一である「もま」という動物の認識があれば、意味の認識にとって十分であり、故意は認められる。
・故意を実質的に判断する立場から: 判例の立場を支持するか、両者とも事実の錯誤となる。
・判決で結論が異なった理由: たぬきとむじなは「2者を区別する習俗がある」一方で、むささびともまは「同一であることを知らず『もま』を捕獲しても罪にならないと信じたに過ぎない」から。「もま」は「むささび」の素人的な認識であるが、「むじな」は「たぬき」の素人的認識ではないから、行為者が社会的意味の認識を欠いていた、と理解できる。
・南からの指摘1: 社会的評価によって意味の認識の内容が決することになる。ある事実が有する社会的評価を明らかにしなければ、意味の認識の内容が不明のままなのであり、行為者が認識すべき故意の内容を画一的に理解することができない。故意の内容は、その事実の持つ社会的評価が明らかになって、はじめて確定することになり、事案の解決を複雑にするのではないか。
・反対動機形成可能性: 故意の要件に、あえて反対動機形成可能性の問題を持ち出す必要はない。
・南からの指摘2: 故意の提訴機能を認める見解は、意味の認識の内容を決するにあたり、社会的評価を評価するが、それが意味の認識に影響すると考えることに問題がある。意味の認識の定義が論者によって異なる理由は、意味の認識に評価を付け加えているからである。
・内藤説: 事実を法規・法的概念にあてはめる前の段階で、『たぬき』であるという『社会的意味の認識』(「素人的認識」)を欠いており、違法性を基礎づける事実の認識を欠く。
・内藤説からの批判: たぬき・むじな事件を違法性の錯誤と解する見解は、おそらく、「たぬきと同じ外見をもつ動物」という意味の認識で足りるとするのであろう。しかし、その事実だけでは意味の認識としては「動物の認識」しかないことになる。それだけの意味の認識によっては、たぬきの捕獲を禁止した狩猟法違反の違法性を基礎づける事実の認識があったとはいえない。
・南の反論: しかし、意味の認識はそれぞれの事実が持つ固有の性質からのみ導かれるべきであるべきであり、事実の持つ社会的意味を加えることは妥当ではない。また、漠然とした動物の認識のみで意味の認識を認めているわけではなく、「たぬき」「むささび」の属性の認識が要求されているから、不当な結論にも至らない。
・内藤説からの指摘: 「たぬきとむじなが別物である」と行為者が積極的に誤信していた場合には、意味の認識が欠ける。意味の認識として、両者が同一動物であるかもしれないという認識が要求される。
・南の反論: このように考えるのは困難である。薬物事犯において、薬理作用は把握しているが、シャブやスピードは覚せい剤ではないと行為者が積極的に誤信しているとして故意が欠けるとすることはできない。積極的な誤信と故意の成否は無関係である。
・安田説: 「たぬき」と「むじな」は別ものだと認識し、そうした理解が古くからの習わしでもあったという事情からすれば、構成要件該当事実の認識という要件の持つ、罪刑法定主義の主観面における保障という意義、役割から見て、やはり、構成要件該当事実の認識が否定された場合においての意味の認識だけで故意を認めることはできない。
・南の反論: たとえ積極的に別物だと認識していたとしても、故意の成立を妨げるべきではない。古くからの習わしという特殊事情も、故意の成否に関しては考慮すべきではない。
・「構成要件該当事実の認識が否定された場合」とは裸の事実の認識が欠けたことを意味するのであれば、意味の認識こそが故意非難の本質であることから、それをもって故意を否定すべきではない。
 
5−4.意味の認識における付け加えの禁止
・南からの指摘: 意味の認識の内容が不明確である理由は、その内容を確定するにあたり、評価的要素も考慮に入れてその内容が判断されることにある。
・付け加え禁止: 構成要件に規定された事実が持つ固有の性質のみに着目し、評価的要素を排除すること(付け加え禁止)を徹底することによって、故意と違法性の意識の可能性の役割を明らかにすることができると思われる。
・意味の認識の役割: 意味の認識によって、故意概念が統一的基準をもつことになる。
・法的概念: 法的概念や専門用語の事実に関しては、裸の事実を認識しただけでは、行為者は自己の行為の意味を理解していないから、ただちに故意の成立を認めるわけにはいかないが、逆に、行為者が法的概念や専門用語を知らなければ故意は成立しないとすることもできない。
・翻訳: 法的概念や専門用語は、そのままの形では認識することが困難であるため、それを一般国民にも認識可能な日常的用語へと翻訳する必要が生じるが、その翻訳された内容こそが意味の認識なのである。
・代理: 意味の認識は、構成要件に規定された文言の代理である。それ故に、行為者は、構成要件に規定された文言で正確にあてはめていなくとも処罰されるのである。
・意味の認識の内容: 故意の提訴機能の観点あるいは社会的評価の観点から意味の認識の内容を画すべきではなく、構成要件に規定された文言からそれが導かれるべきであるということになる。
・たぬき・むじな事件: 「むじな」、あるいはたぬきの姿かたち(「たぬき」から導かれる固有の性質)が意味の認識の内容となる。
・南の批判: 故意を認めるに相応しい事実の認識であるか否かという視点から意味の認識を定義する方法(例えば、意味の認識を、当該構成要件の違法性の意識を喚起し得る事実の認識、直接違法性の意識が喚起可能となるような事実の意味内容の理解とするような見解)は、既定の文言から離れて故意の内容を決することになり、妥当ではない。そのような見解は、故意は構成要件該当事実を認識することとはいえなくなってしまう。
・行為規範: 意味の認識は、国民にも認識可能な法律規定の翻訳であることから、行為規範そのものであるということにもなる。評価を付け加える見解からは、意味の認識を行為規範と考えることはできないであろう。
・付け加えの必要性: 事実固有の性質から導かれる意味を超えて、評価を付け加える必要はない。
・たぬき・むじな事件: むじなという認識が行為者にあれば、法が捕獲を禁止している動物を捕獲する認識があるのであり、シャブを覚せい剤だとは知らずに所持している行為者となんら変わらない。むじなとたぬきは同一物であり、むじなおよびたぬきが指し示す物体は何ら変わらないからである。
・行為規範の動揺: 行為者の表象しているもの、たぬきそのものであり、ただ名称を知らないだけであって、行為規範違反が認められることになる。法が捕獲を禁止している動物自体を行為者が認識して捕獲することから、規範は動揺している。
・行動のコントロール: 行為規範が動揺させられた以上は、ただちに犯罪の成立を否定するわけにはいかない。規範を通して行動をコントロールすることが法の役割である。刑法は、評価の誤り(違法性の錯誤)の場合であれば、規範を教え、規範に関する誤解をただすために存在することから、寛容になれないのである。
・責任説からの帰結: 直ちに行為者の処罰に結びつくわけではない。故意が認められるとしても、違法性の意識の可能性が欠けることによって責任が阻却される。