樋口裕晃・小野寺明・武林仁美「裁判員裁判における法律概念に関する諸問題13 責任能力(1)」

判例タイムズ1371号77ページ以下)
裁判員への責任能力概念の説明について。本研究における裁判員への説明例は標準的なものであるが(刑罰目的については応報+一般予防+特別予防、責任能力については他行為可能性からの非難可能性に基づく説明)、本研究では責任能力に関する理論状況などについても、まとめられている。
・ここでは、その理論状況のまとめについてみてみる。

第1 責任能力概念に関する総論的検討
1 はじめに
・大阪高裁所管内で責任能力が問題になった一審判決を中心素材として取り上げる。
2 責任能力の本質について
(1)責任主義の意義について
・現在、責任主義について一般的に説明されているところは、「責任(非難可能性)なければ刑罰なし。」という原則であり、ある行為を処罰するためには、当該行為を回避しなかったことについて、行為者を非難できつことが必要である、という考え方である。
・国民の行動の予測可能性を、主観面で保障するものであるとされている。
・狭義では「故意・過失がなければ犯罪は成立しない」、広義では「違法性の意識の可能性・責任能力・期待可能性が欠如することにより行為者を非難できない場合には処罰してはならない」という意味で使用される。
・処罰範囲を限定する消極的な原理であると解されている。
・なお大谷實は、責任は、刑罰を根拠づけるとともに限定づける機能も有するものである、とする。
・また、量刑面における罪刑のバランスも、責任主義の要請の一つとされている。

(2)責任に関する諸説
・責任の本質について、かつて、意思の自由を認めるか否かという観点によって、道義的責任論(認める)と社会的責任論(認めない)が対立していた。
・道義的責任論が通説的となり、折衷的な見解として相対的意思自由論、ソフトな(やわらかな)決定論、さらには、モデストな決定論、規範的責任論、可罰的責任論、積極的一般予防論を基礎とする目的刑論などが展開されている。
・林幹人の説明では、相対的意思自由論は、意思は相対的に自由であるにすぎない(意思は一定限度、環境と素質により決定されている)が、それでもその範囲内で人は自由に意思を決定しこれに従って行動することができる、とするものである。
・林幹人の説明では、モデストな決定論は、われわれは世界が法則の支配下にあるのかは知らないが、世界が(人間の意思・行為を含めて)確率的・統計的に決定されている、とするものである。
責任主義の背景にあるのは、応報刑論ないし道義的責任論。
応報刑論は、予防を考慮しない絶対的応報刑論と、予防を考慮する相対的応報刑論にわかれる。
・道義的責任論は、違法行為をしたという本人の意思決定を非難の根拠とし、責任が道義的非難に立脚したものであってはじめて、刑罰が説明できるとする。
・これに対して、近代学派の性格責任論では、責任の基礎を行為者の社会的危険性に求める。
・道義的責任論の内容をなす心理的責任論に対して、故意・過失という心理的事実のみでは、責任の本質を正しく把握できず、適法行為が期待できないときには責任非難を導けない、と批判があり、ここから規範的責任論がうまれた。
・規範的責任論は、行為者が他行為を行うことが可能であったにもかかわらずあえて犯罪行為を行った場合に、非難が可能であるというものである。
・さらに、実質的責任論は、規範的責任論を出発点としつつ、責任の内容は犯罪の一般予防と犯罪者の特別予防(ないし社会復帰)にとっての刑罰の必要性をいう立場である。社会的責任論に属するとされる(大谷)。
・可罰的責任論(鈴木茂嗣)は、二重の責任を要求する。「規範的責任」(可罰的責任を問うための必要条件)と「可罰的責任」(可罰性の必要十分条件)であり、期待可能性の理論は「規範的責任論」で役割を果たし、その限度内で「可罰的責任論」で処罰必要性・相当性が検討される。
・可罰的責任論(山中敬一)は、責任を、「狭義における責任」(責任が刑罰の基礎であり限界である)と「可罰的責任」(刑罰の必要性が責任を規定する)に分ける。これに対応して、非難可能性も、「規範適合的意思決定可能性」(意思決定の自由を対象とする判断)と「規範適合的行為可能性」(行為に移す意思決定の自由)に分ける。可罰的責任は、後者の意味における非難可能性である。
前田雅英は、刑罰効果を極大化するという目的刑論から責任主義を導く。積極的一般予防から、一般人から見て非難可能な行為のみを処罰しなければならない。非難可能性の内容は、「現在の我が国の国民が刑罰を科することを納得する事情」という観点から逆算する。

(3)責任能力制度の根拠について
・林幹人(「責任能力の現状――最高裁平成20年4月25日判決を契機として」上法52巻4号(2009)27頁)の分析。
*1 安田拓人: 刑罰目的は、予防でなく応報。自由意思により違法行為を選択したことが責任の根拠。自由意思はフィクションであってもよい。
*2 曽根威彦: 行為者本人を基準としても、他行為可能であったことが責任を基礎づける。
・これらに対して、林は、(重大な不利益を与える)刑罰がそれ自体として全であるとするのは不可解であり、刑罰は犯罪を防止するために必要な悪と考えなければならない、とする。
・非決定論は、科学的に証明されていない。そして、本人基準ならば、他行為可能性の証明は不可能である。
*3 町野朔: 特別予防の観点から、刑罰は、以後犯罪を犯さないように動機付けるために科されるサンクションであるとする。責任能力は、実定法によって特権化された責任阻却事由である。精神医療による処遇が適切な場合にはそちらを選ぶべきである。
・これに対して、林は、刑法は一般予防の機能を果たしており(また、果たすべきであり)、責任能力もこの見地から基礎付けられる、とする。再犯防止は、犯罪者の利益というよりは社会の利益である。また、責任能力の有無と強制医療とは、異なるものである。
・これらの上で、林は、自由意思は仮定的に判断されるべきであるとする。現実の意思(非難の対象)にかえて、あるべき意思をもったならば他行為可能であったとき、自由意思があったとする。そのあるべき意思をもち、他行為(適法行為)を選択させるためである。

(4)責任能力の本質について
・団藤重光は、責任能力とは、非難可能性の前提となる人格的適性である、とする。大谷實も、責任能力とは、責任非難を認めるための前提となる人格能力であるとする。
・大塚仁は、責任能力とは、有責に行為する能力、すなわち、行為者に責任非難を認めるための基礎としての、行為者が規範を理解しそれに適合した行為をなしうる能力である、とする。
佐久間修は、責任能力とは、当該行為者に規範的責任を加える前提条件として、有責に行為する能力があったかどうかの問題である、とする。その内容は、違法行為の意味を認識(是非弁別能力)したうえで、それに従って自己の行動を制御しうる能力(行動制御能力)である。
・これらに対して、平野龍一は、責任能力は有責行為能力だが、ある意味では刑罰適応能力である、とする。刑罰適応能力は、(受刑能力と異なり)行為時に要求され、その行為が刑罰を科すのに適したものかどうかという問題である。責任能力とは、およそ何らかの意味で有責に行為する能力があるかどうかの問題ではなく、刑罰で問うに足りる責任(可罰的責任)があるかどうかの問題である、とする。
・山中敬一は、責任能力とは、有責に行為する能力であって規範の要求に応答しうる能力であるが、それは刑罰を科するための前提的能力でもある、とする。
・浅田和茂は、責任能力とは、まず、決定規範の名宛人を示すという意味において、有責行為能力であり、責任前提であり(規範的責任能力)、行為者の一般的能力を意味する、とする。ついで、この規範的責任能力の程度が、可罰的責任能力の観点から検討されるべきである、とする。
・林幹人は、刑罰は、反規範的意思をもって規範に反したことを根拠として処罰することによって反規範的意思を持たないように人々を動機づけ条件づけるもの(一般予防)であり、責任能力とは、反規範的意思をもつ精神能力である、とする。
・堀内捷三は、責任能力とは、自己の違法な行為について責任を負う主観的な能力である、とする。予防的観点より、責任能力の判断にとって重要なのは、法の要求へと行為者を動機づけつのに足りるだけの精神的状態にあったか、という点である。
・実質的責任論、可罰的責任論が有力になってきているのは、意思の自由・他行為可能性について論証するのが困難であるとの見方から、これとは別の観点から責任非難を基礎付けようとしているからとみられる。

(5)責任主義及び責任能力裁判員に理解してもらうための説明の在り方について
・仲宗根玄吉は、決定論も非決定論もフィクションだとすれば、どちらを推定的に前提とするほうが刑事責任の説明にとって長所を持つかに帰する、とする。そのうえで、非決定論・意思自由論のほうが論理的に単純明快であり、犯人の改善に有用であり、刑法の保障機能にも適合する、とする。

責任主義の中における責任能力の位置付けについて
(1)責任能力と期待可能性ないし違法性の意識(の可能性)との関係
・期待可能性の理論は、行為時に存在する具体的事情の下で、行為者が他の適法行為を行い得るであろうと期待することができなかった行為について、責任非難することはできない、というもの。
違法性の意識(ないしその可能性)は、自己の行う行為が禁止されていることをしらなかった(ないし知ることができなかった)者に対しては、それをやめることを要求できず、行為者への責任非難を認めることができない、というもの。
・期待可能性と違法性の意識は、いずれも責任阻却事由という点で、責任能力と関係をもつ。
・井田良は、責任能力全体の上位概念が、違法性の認識とそれに従った意思決定の制御という二つの要素に求められ、それぞれが能力面と状況面に振り分けられている、というのが責任論の体系である、とする。原則として人間には責任能力が備わっていて、精神の障害という生物学的要素が存在するときに責任能力が否定されるという判断方法をとる方が、事実に即した安定した判断が可能である、とする。
*1 規範的責任論かつ責任要素説(責任能力は、個々の行為との関係においてその責任の要素の一つであるとする説)は、心理的要素が重視されることになる。責任能力は故意・過失の後に判断されるべき、とする考え方が一般的となる。期待可能性と責任能力は、外的事情か内的事情(精神障害)かの相違に過ぎない
・ただし、大塚仁は、構成要件的故意・過失は責任能力に先行させて判断するべきであるが、責任故意・過失は責任能力の後に判断するべきである、とする。
・林幹人は、責任能力は、違法性の認識の可能性の後、期待可能性の前に位置する要件と解される、とする。
*2 責任前提説(責任能力は、個々の行為から独立した統一性・持続性を持つ行為者の一般的・人格的能力であるとする説)からは、責任要素としての故意・過失に先立って責任能力を判断するのが原則になる。生物学的要素が重視されるため、期待可能性や違法性の意識の可能性とは独自に判断されることになる。
・浅田和茂は、責任能力を、故意・過失を持つ能力でもある、とする。ただし、浅田説は構成要件的故意を認めない立場であるため、構成要件的故意と責任能力との関係は、はっきりとしない。
(2)評議等における責任能力の判断順序
・これまでの刑事裁判実務は、責任能力は、構成要件該当性と違法性を検討した後に論じられるのが一般であった。
・その実質的理由は、客観的事実(起訴状の公訴事実の有無にかかわる事実)の確定の必要性があることである。また理論的理由は、(責任要素説からはこの判断順序は自然であるが)責任前提説からも、客観的犯罪の成否にかかわる事実認定をさしおいていきなり被告人の一般的人格能力として責任能力を先に論じるということは実務的には考えにくい。
・なお、平野龍一は、責任能力は責任の要件(前提)であるとしつつ、構成要件に該当する違法な行為をしたことが証明されていない者について、精神の障害があるかないかを判断するのは適当ではない、とする。
責任能力と同時に故意が争われるケースでは、判決の無罪理由中で、最初に公訴事実を掲げた後、責任能力を検討する中で故意についても検討する手法が採用される。
・この点、構成要件的錯誤の問題として錯誤論で議論するよりも、錯誤の原因となったと見られる責任能力の問題として集約し一括して論じるのが、むしろ論理的で実際的であるという見方も考えられる。
・期待可能性については、犯罪体系上の位置づけは、(i)故意・過失の構成要素とみる説(団藤)、(ii)故意・過失と並ぶ別個の責任要素とみる説(西原)、(iii)独立の責任阻却事由とみる説(福田)がある。期待可能性は積極的な犯罪成立要件というよりは特別の外部的付随的事情による責任阻却自由であると解するのが相当であり、(iii)を支持する。
・期待可能性の判断基準については、(i)行為者標準説、(ii)一般人標準説、(iii)国家標準説、(iv)総合説、がある。このうち、(i)に立つと、責任能力の判断部分と実質的に重なる部分が出てくるとも考えられる。
・以上によれば、期待可能性は、責任能力の有無を確定した後で論ずるのが相当であると考える。
 
医療観察法において、対象行為該当性が肯定されるためには主観的要件(故意など)が必要とされてきたが、激しい幻覚妄想状態での行為のように、構成要件的故意を欠く場合も考えられる。
判例(最決平20・6・18刑集62巻6号1812頁)は、対象者の行為が対象行為に該当するかどうかの判断は、「対象者が幻聴、妄想等により認識した内容」に基づいて行うべきではないとした。対象行為を外形的・客観的に判断して考察して、心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば対象行為を犯したと評価できるかどうかの観点から、判断すべきとする。症状の重い者が主観的要素の点で対象行為該当性を欠くことになり、法の目的に反するからである。
・高橋則夫は、この仮定的判断(心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば対象行為を犯したと評価できるか)の趣旨につき、(i)対象者の心理の中に、病的な認識を除外した通常人の正常な認識が存在すると観念し、外形的行為からその認識を推認する、という趣旨、(ii)故意を通常人基準で認めれば足りる、という趣旨、と理解しうるが、(i)はそのような認識を認めることは困難であり、(ii)は、犯罪論の原則は医療観察法にも該当するので問題である、と批判する。
・東京高判平20・3・10は、構成要件的故意が、どの犯罪を構成するかを振り分ける契機となる事由として位置付けられるべきものであるから、その契機を果たすのに足りる認識があれば、故意は肯定されてよいとする。
・また同高判は、(殺人罪)行為者が「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」との認識を有していれば、それらを総合して「人」といった認識をもっていたものであろうという推定をすることができる、として、殺人の構成要件的故意を認めた。
判例に対し、浅田和茂は、意味の認識を含む故意を、責任無能力状態で有していたと解することに無理がある、と批判する。また林美月子も、故意は行為者自身の認識の有無によるもので、通常人の認識を問うのは責任主義に反する、とする。
・一方、安田拓人は、立法で「精神の障害に基づく錯誤があったとしても、他害行為は故意に行われたものとみなす」との規定を置くほうが望ましいとしたうえで、現行法の解釈としては、精神の障害に基づく錯誤は考慮しないとするほうが、医療観察法の趣旨にそぐう、とする。