ゲームの目標(9)

ドラクエやFFなどのいわゆる「大作RPG」は、シリーズが新しくなるにつれてどんどんとボリュームが大きくなりました。登場人物が多くなり、セリフが長くなり、ムービーが多くなり、世界が広くなり、出来事が多くなりました。要するに、クリアまでの時間が長くなったのです。この原因は、良いシナリオがたくさんできあがったというよりは、ハードの性能が上がり容量が増えたというところが多いと考えますが、それはともかく、クリアまでに必要な時間は、長くなりました。

ところで、相変わらず、プレイヤーにとってのまず第一の目標は、最終目標への到達です。ラストシーンを一度も見ることなく「ゲームをクリア(攻略)した」という満足感にひたれる人は、きわめて少ないと思います。
ひたすら限界まで経験値をかせぐプレイスタイル、アイテムをたくさん見つけるスタイル、全ての分岐点をチェックするスタイルなど、いろいろなプレイスタイルがありますが、まずは最終攻略画面への到達が、プレイヤーの目標でしょう。

なぜそうなるかといえば、ドラクエ1以来、RPGの設計に質的変化がないからです。ゲームを開始したら少々の場面説明ののちに主人公が登場する。プレイヤーが操作するこの主人公は途中いくつかの出来事を遭遇して、最終ステージへたどり着きクリアする。このような筋書きは、ずっと変わることがありませんでした。プレイヤーの多数派は、やっぱり、「最終場面に到達してクリアするためにプレイする」わけです。

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いっぽう、単にシナリオを引き伸ばしただけだと飽きられてしまうので、制作者は、中盤にいくつかの盛り上がりを置くことになります。また、クリア後に全てのアイテムをそろえるなどのコンプリート要素も置くことになります。
しかし、それでは多数派は楽しくありません。彼らは「最終場面に到達するためにプレイする」わけですから、中盤の充実にはたいして興味がないわけです。

PS版のファイナルファンタジードラクエには、ディスク数枚にもわたる作品があります。その一枚目を突破したとき、「残り3枚もあるのか。フー、先は長いな」って思ったことはありませんか?そう思った時は、目標を最終場面への到達と考えているわけです。
例えば音楽のCDアルバムを聴くとき、私は「最後の音を聴く」ことを目標にしたりしません。ですから、残り曲数がたくさんあるからといって、うんざりしたり気が重くなったりしません。しかし、新しいRPGをプレイするときは、最後まで到達することを目標にしますから、途中で残りの必要プレイ量を考えると、やっぱり気が重くなります。

もうひとつ、目標を最終場面への到達と考えた場合の特徴として、「最後までいったらプレイをやめてしまう」ということがあります。実はこのことは、アイテムなどのコンプリートを目標とした場合でも、同様にあてはまります。
経験値がたまることが楽しいと考えてプレイする場合には、何度でも同じゲームをプレイするでしょう。しかし、話の先を期待させるという方法で引っ張ってきたゲームは、特に最終場面への所要時間が長いと、繰り返しプレイしてくれる可能性が低いです。

ですから、ドラクエのようなシリーズRPGは、古い作品のほうが何度もプレイされやすいのです。
このことは時々、「昔の作品のほうが優秀だった」という文脈で説明されることが多かったのですが、本質はむしろ、昔の作品のほうが繰り返しのプレイに向いている、という要素のほうが大きいと思います。

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最終場面といえば、初期の作品では、「HAPPY END」みたいな文字が書かれたラストシーンが存在しました。ドラクエ1では、最終敵を倒すと住人一同から「おめでとう」「ありがとう」などの言葉をひととおりいただいた上で「THE END」と書かれた画面が登場します*1。プレイヤーが敵に倒されても、間違った選択をしても、決して「THE END」にはならない以上、この画面は失敗ではなく任務達成ですね。そして、この画面は、目標到達をも意味します。

さて、ドラクエシリーズでは、味方のレベルや、仲間にしたモンスターの数や、見つけたアイテムの数が表示されます。最近のゲームでは、「図鑑」と称して自己の成績を一覧できるものもあります。そうすると、この表示画面がフルになっている状態、たとえば味方全員のレベルが最高になっている状態の画面や、希少アイテムを全てそろえた状態の画面などは、見ていて気持ちがいいものです。
というわけで、これも立派な目標になります。そして、こういうコンプリートを「目標」と捉えることができるように、制作者は、わざわざ成績表示画面を用意するのです。

ですが、このさじ加減も難しいです。あまりにコンプリートの側面を強調しすぎると、こんどはシナリオ上の最終場面の意味が薄れ(目標でなく終了条件になるからです)、ただの作業ゲームになるからです。

作業ゲームといえば、大半の「育成型シミュレーション」は作業ゲームですよね。到達すべき最終画面もなく、それゆえに時には「ゲームではない」と言われることもあります。プレイヤー各自が思い描く状態に持っていくまで、彼らは延々と作業を繰り返していきます。

目標の達成と同時にゲームが終了するサドンデス制には2つの種類があるようです。最終局面への到達が目標である将棋のようなゲームと、プレイヤーが思い描く状態に持っていくことがその本質である「絵描きソフト」のようなゲームと。
それら両方の関係について、次回考えてみます。

ここでいったん整理してみます。
最終局面への到達が目標である将棋のようなゲームでは、障害は強ければ強いほど楽しいです。
プレイヤーが思い描く状態に持っていくことがその本質であるゲームでは、障害はあまり大きな意味を持ちません。むしろコンプリートの困難性(必要な戦闘量の多さ、あるいはアイテム出現率の低さ)が意味をなします。

*1:このあたりの私の記憶はあやふやです。すみません。