人と胎児の区別(その1)

1.学説の整理
刑法上、胎児がいつ人になるのかについては、「陣痛開始説」「一部露出説」「全部露出説」「独立呼吸説」の4つが主張されてきました。
「陣痛開始説」は、母体が胎児を母体外に出す作業の開始(出産開始)によって、胎児が母親からの独立を果たすというものであり、ドイツ・オーストリアにおける通説です。(オーストリアでは嬰児の殺害を別個に処罰する規定がある点や、ドイツではかつて存在していた嬰児殺規定が廃止された点に注意する必要があります。)
「一部露出説」は、出産開始後、胎児が母体から一部露出した時点で、人と胎児との区別をするものであり、日本における多数説です。
「全部露出説」は、胎児が母体より全部露出した時点で人と胎児との区別をするものであり、民法上採用されている区別基準です。
「独立呼吸説」は、胎児が自分の肺で呼吸する(あるいはその可能性をそなえる)時点で人になる、というものです。
 
これらのうち、独立呼吸説は、母体内の胎児も肺呼吸しうるという医学的見地から、これを人と胎児の区別基準として支持することができないとされ、また陣痛開始説は陣痛の定義・認定が困難であり、実際上も人の始期としては早すぎるものであるとして、やはり採用できないとされます。というわけで、学説上は、一部露出説と全部露出説が対立しているとされています。
さて、一部露出説の根拠は、「母体より其一部を露出したる以上母体に関係なく外部より之に死亡を来すべき侵害を加うるを得べきが故に殺人罪の客体となり得べき人なりと云うを妨げず」(大判大正8年12月13日刑録25輯1367ページ)とされるとおり、母体から独立しての直接侵害が可能になるという点に求められます。「部分的であっても、母体外において独立かつ直接的に生命・身体が侵害され得る時点に至れば、人として保護すべきである」(前田雅英・各論2版11ページ)、「生命・身体の罪は、独立の生命を有する個体の生命・身体を保護するものであるから、この法益保護の目的からは、「胎児」が母体から独立して直接に侵害の客体になりうる状態に達した以上は「人」として保護に値すると解すべきこと、また、一部露出中の「胎児」の肢体に直接侵害を加えたか否かを基準とすることにより堕胎と殺人との区別を容易にしうること、この二点において一部露出説がすぐれている」(大谷実・各論4版補訂版9ページ)とあるとおりです。
いっぽうの全部露出説では、出産を経たことによる客体の要保護性の差異を根拠とします。「出産という危険な過程を経たかが「胎児」と「人」の区別の実質的基準であることになり、基準の明確性なども考慮すれば、おそらく全部露出説に至ることになろう」(山口厚「生命に対する罪」刑法理論の現代的展開各論5ページ)とします。
判例については、一部露出説を採用していると理解されています。さきに挙げた大判大正8年が、例にあげられます。ただ、このケースでは全部露出後にも加害行為がなされており、前掲部分は傍論にすぎません。このケースでは全部露出説を採用したとしても殺人罪が成立するのであって、結局、明確に一部露出説を採用したものとはいいにくいです。「大正8年の判決後、これを踏襲しあるいは確認した判決は一つも出ていない」(平野龍一「刑法における「出生」と「死亡」」犯罪論の諸問題(下)260ページ)のであり、また、別の判決では「胎児がかねゑの産門より微しく其顧頂部を露わし将に出産せんとする際両手を産門に挿入し胎児の鼻口を圧迫し之を死に致し」(大判明治36年7月6日刑録9輯1220ページ)の場合に堕胎罪が成立するとしている点からは、判決では一部露出説を否定しているようにもとれます。
結局は、人の始期の問題について、判例は形成されていないと考えるのが素直でしょう。
 
2.議論の視座と解決
さて、なぜこのような議論がされているのかというと、まず、何をもって「客体」とするのかという問題があるからです。例えば財産犯での「物」の定義につき、有体物であるという説と管理可能物であるという説が分かれています。「物」という言葉から考えると有体物説に正しさがあるように見えますが、その一方で、財産犯の性格からは管理可能性説が導けそうです。人の始期についての議論でも同様に、「客体」について検討されているのです。
そしてもう一つ、2つの犯罪の限界についての問題があります。殺人罪と堕胎罪という、保護法益も行為態様も、そして立法趣旨も異なる犯罪に関して、どのような境界が設定されるのかという問題です。似たような例として、横領罪と背任罪の問題があります。立法経緯が異なるこれらの犯罪類型は、それぞれ独自の事情で構成要件が設定されているために、どうしても、構成要件が重なる部分やどちらの類型にも該当しない領域が発生してしまいます。発生するのです。
これら2つの問題について、人の始期の議論ではどのようにアプローチされているかをみてみます。
(この項つづく)