刑事訴訟制度史の検討(その1)

1.問題の所在
陸軍治罪法(明治21年法律第2号)・海軍治罪法(明治22年法律第5号)に基づく軍事裁判においては、判士長・判士は長官の裁判宣告命令によって判決を言い渡す。一方、長官は司法機関を統括するが、判決内容には関与しない(陸第86条以下、海第91条以下)。
この制度について、以下のような説明がある*1

この軍法会議は多分に欧州中世の裁判所の構成の影響を受けていた。即ち裁判所の長官Gerichtsherrと判決裁判所Das Erkennende Gerichtを区別し、裁判所の判決を下すには長官の確認を要した。

中世ヨーロッパの(軍事裁判ではなく普通裁判)制度の影響を受けていたとのことである。ではどのようにして、この時期の日本の、しかも普通裁判所ではなく軍事裁判所にこのような制度が導入されたのであろうか。
 
また、陸軍裁判所(明治5年4月9日太政官布告による)では、参座制度が採用されている。これについて、以下の説明がある*2

【引用者注:明治5年7月の陸軍省達には】職務の内容は規定していないが、一種の陪審であったろうと思われる。果して然らば陪審の試みは、陸軍が最も早くして、普通裁判所の採用したのも、この熟字に基いたものということもできる。

陪審制は当時の日本にはなじみの極めて薄かった制度である。これも、どのようにして、この時期の日本の軍事裁判所にこのような制度が導入されたのであろうか。
 
2.前提
軍人の違法行為に対して通常の刑事実体法・手続法とは異なる法制を制定するのは、国際的な原則である。フランスでは、1439年の常備軍設立よりも以前の1356年に、軍人の不服従や逃亡等の処罰に元帥の裁判権を定めている*3。日本においては、大宝令に軍人処罰規定が存在していたようだが*4明治維新ののちに軍隊が編成されるとともに、軍事刑事法も徐々に近代化・整備された。
 
軍紀維持を目的として制定される実体法においては、陸軍局諸法度(明治元年5月3日第367)、軍律(明治2年4月29日第411)を経て、海陸軍刑律(明治5年2月18日兵部省達)の制定*5、に至る。この頃は普通刑事法制においても、新律綱領(明治3年12月20日第944)名例律や、改定律例(明治6年6月13日太政官布告)軍人犯罪律に軍人を対象とした規定があったが、刑法(明治13年太政官布告第36号)にはかような規定は存在しない。
この刑法制定を受けて軍刑法も整備され、陸軍刑法(明治14年太政官布告第69号)、海軍刑法(明治14年太政官布告第70号)が制定され、その後さらに、刑法改正(明治40年法律第45号)を受けて陸軍刑法(明治41年法律第46号)、海軍刑法(明治41年法律第48号)が制定された。
 (この項つづく)

*1:藤田嗣雄「明治軍制」(信山社、平成4年)295ページ、

*2:松下芳男「明治軍制史論(上)」(有斐閣、昭和31年)434ページ、

*3:松下・前掲注2・410ページ

*4:松下・前掲注2・410ページ

*5:海陸軍刑律はオランダ領の法規を参照したと言われることがある。松下・前掲注2・415ページでは「和蘭所領の印度の属地に施行されたものを翻訳し、之れを骨子にして作成されたものであるという。故に内容が我国の軍情に相応しからぬものも少くなかった。」とする。なお、当時のオランダ領東インド軍律Military Wetbook Voor hat Nederlandsch Oost-Indisch Leger 1864は陸軍省蔵書であったようだが(藤田・前掲注1・291ページ注(5))、現在これを閲覧できるかは不明である。