ネットにおける儀礼的無関心

儀礼的無関心がけっこう盛り上がっています。
以下導入部分。

 たとえば、ひっそりとネットで日記を書いている人がいる。Aさんとしよう。とくにリンクも張られずに、目立つことなく、だけど、Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人もわずかだがいたとする。

 ある日、Aさんはあることについての日記を書いた。それを見たある人がAさんの日記にリンクを張った。さらにそれを見つけた人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った。結果、ひっそりと日記を書いていたAさんのサイトへのアクセスが殺到した。

 Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった。結果、そのテキストを誰も見ることができなくなり、その後日記そのものをやめてしまった。

私も、3-4年の間、あちこちでウェブ日記を書いてきました。 
解析や掲示板のたぐいはまずつけていないので(はてなリンク元を自動的に表示するのですが、現在はその機能を切っています)、ぜんぜん反響はわからないのですが、指で数えられる程度の読者数を想定して、細々と書いてきました。
最初はロボットも弾くサーバで書いていたのですが、検索でひっかかるくらいにはしておいてもいいかなと思って、現在では検索エンジンはてなキーワード検索で来れるようになっています。

でも時々ですね、他のところでアドレスが貼りつけられることがあるんですよ。で、それ自体はどうってことなくむしろ嬉しいのですが、意味不明な批判が書かれたりすることがあるのでうんざりしました。
不登校について、「学校が全てじゃないから行かなくてもいいっていう考えもわからないわけじゃないけど、私の周りでは不登校の人がそのまま不出社に悪化してしまうことが多い。それもあって、私は、学校に行くという選択肢も頭の片隅に入れておいて欲しいと思う」みたいなことを私が書いたんですよ。そうしたら、それに対して、「法律家は法律を勉強して頭が固い、すぐ比較衡量する、だからこの人は法律の勉強はやめたらいいと思う」って書かれました。
こっちはぜんぜん法律の話なんかしてへんやん、と思ったのですが、もうほうっておきました。自分の文章と相手の文章をよく読み返して、相手が自分のほかの文章に対して返事しているのかな、とか、私の「比較衡量」への理解が間違っているのかな、とか、いろいろ解釈を試みたのですが、でもやっぱり意味がわかりませんでした。

昔は私も、法律は市民のものだからネットでみんなと法律の話を、なんて思っていたのですが、ぜんぜんうまくいかないんですよ。

そんなわけで、基本的にはごく少数の、同意するにせよ反発するにせよ私の文章をちゃんと読んでくれる読者のために、私は日記を書いていきたいな、と考えています。
ありえないけどアクセスが私の手におえないくらいに多いことになったら、そのときは閉鎖してまた別の所で一から始めようかな、と思います。