刑法の人。

刑法以外の方と話をしてみて改めてわかったことですが、刑法の人が当然のように使っている「判断基準の統一性」の概念は、使わない人からみると感覚がつかみにくいかも知れません。
たとえるなら。ある家に入ろうとして、その家の入り口を開けることができるカギを使おうとする。その時に横からひょいと刑法学者が現れて、「確かにそのカギではこの家の入り口は開く。でも、そのカギでは隣の家は開けられないだろう、だからそのカギは妥当ではない」とか言い出す。時に刑法学者は、そのカギで開けられないようなドアをわざわざ作り出してまで、カギに難癖をつける。
なるほど。これでは確かにいいがかりですね。
 
刑法の人は、「ある事案を適切に解決する方法Aがあったとして、その方法Aを別の事案にあてはめれば不適切な解決になる」という場合には、その方法Aを嫌うのです。
ですから、どうみても妥当な解決方法に対して、「別の事案では妥当でないから」という理由で、疑義をはさむことがあるのです。
また、Xという事例について、これを2つに分けてそれぞれに別々の解決方法をあてはめたときに最も妥当な解決を導ける、という場合であっても、「なぜ事例を分けるの? 恣意的だなあ」と批判することがあります。このとき、たいていの分野では「分けたとき一番うまく説明できるから」といえば納得してくれるのですが、刑法の場合はそうはいきません。
 
それほどまでに統一性を要求する理由はいくらかあるのですが、その理由はさておき、刑法の人はこの統一性を(論者によって程度の差はあれ)重視するということを念頭に置くと、討論はスムーズに進むかと思います*1。「せっかくうまく解決できているのに、なぜわざわざ関係のない例を持ち出して判断基準を批判するのか」と感じた時には、このことを思い出せばいいと思います。
逆に言えば、「その論法だとすべての〜について処罰することになってしまう」というフレーズを覚えると、いっぱしの刑法の人になれるのかもしれませんね。

*1:このあたりのことがわかっていない自称「刑法の人」もいるかもしれません。自戒の念をこめて。