ひったくりと窃盗

id:hakurikuさまの「「ひったくり」が「窃盗」である理由」が完結されたようです。
窃盗はひそか(窃か)に盗むという意味であるはずなのに、公然と行われるひったくりがなぜ窃盗に含まれるのか、について検討されている力作です。
完結してから必ず言及しようと私は思っていました。というわけでここで言及してみます。

鶴田文書では、旧刑法立法当時の、ボアソナードと鶴田皓との議論が収録されています。手書きなので読み取りにくいのですが、一部引用してみます。

ここでの内容として、以下の点が挙げられます。
・ 日本の従前の律には、「盗罪」として窃盗と強盗の2種類しかないこと
・ この両者の区別は「暴行による盗取かどうか」であること
・ そしてこの2種類で「盗罪」を捕捉するのが日本の方針であり、フランスのような多岐にわたる規定は錯雑としているので採用できないということ

(日本刑法草案会議筆記第四分冊2228ページ、【 】は引用者注)
ボアソナード

以下財産ニ対スル重罪及軽罪ニ付テ議スヘシ
仏国刑法第三百七十九条ニ「何人ニ限ラス己レニ属セサル物ヲ盗ミシ罪ヲ名テ盗罪ト云フ」ト記セリ之ハ其盗罪ノ性質ヲ示シタル者ナリ
【中略】
仏国刑法第三百七十九条ノ箕訳ニ「己レニ属セサル物ヲ盗ミシ罪」ト記シタル盗字ハ「フードリュースマン」ノ原語ナリ此原語ハ悪意ニテ取リタルト云フ意味ナリ例ハ一時ノ戯レニ取リタル者ヲ云フニアラス
【中略】
故ニ盗罪トハ総テ他人ノ物件ヲ其ノ承認ヲ得スシテ己レノ所有ト為シタル者ヲ云フ

鶴田

然リ貴説ノ主意ハ了解セリ然シ日本語ノ窃取又ハ盗取ノ字ハ不正ニ取リ又ハ所有主ノ承諾ヲ得スシテ己レノ所有ト為シタル意味ヲ充分ニ含蓄スヘキ者トス故ニ右ノ日本語ヲ以テ之レニ適用スヘシ

(同2234ページ、【 】は引用者注)
ボアソナード

然シ仏文ニテハ日本語ノ窃盗ト強盗トヲ判然ト区別スヘキ適当ノ原語ナシ故ニ盗罪ノ字ヲ元トニ立テ其内ニテ暴行ヲ用ヒサル盗罪ト暴行ヲ用ヒタル盗罪トヲ区別シ其刑ヲ軽重セントス

鶴田

日本ニテ盗罪中ニ窃盗強盗ノ二種ノ区別アリ此窃盗強盗ノ字ハ従前ノ慣習ヨリ用ヒ来ル者ニ付之ヲ明記シテ盗罪ノ区別ヲ為サンコトヲ要ス仏語ニテ盗罪ノ性質ニ仍テ区別スル所ノ意味トハ自ラ異ル所アルニ似タリ
故ニ盗罪中ノ各区別及刑名等ハ仏国刑法ニ做フヘキナレトモ罪名丈ケハ窃盗強盗ノ字ヲ用ヒテ此窃盗強盗ノ字ハ仏文ニテハ何等ノ原語ヲ用フヘキヤ

名村曰元来日本ニテ所謂窃盗及強盗ノ字ニ適当ノ原語ナシ然シ通常ハ原語ニテ所謂単一盗即暴行ヲ用ヒサル盗ヲ窃盗ト云ヒ暴行ヲ用ヒタル盗ヲ強盗ト云フ故ニ之ヲ原語ニテ区別スル時ハ窃盗ハ単一盗及暴行ヲ用ヒタル盗ト記スルヨリ外ナカルヘシ
 
ボアソナード

故ニ先ツ仮ニ単一盗ヲ窃盗暴行ヲ用ヒタル盗ヲ強盗ト見做シテ協議スヘシ
仏国ニハ単一盗即窃盗ニモ其ノ所作ニ仍リ重キ情状ト為スコトアリ又暴行ヲ用ヒタル盗即強盗ニモ亦然リ

鶴田

日本文ノ窃盗強盗ノ字ハ仏語ニ適当ノ好字ナシト雖モ従前用ヒ来タル窃盗強盗ノ字アルニ殊ニ仏語ノ如ク単一盗及暴行ヲ用ヒタル盗ト記シテ之ヲ区別スルハ太タ面白カラス故ニ今後ノ刑法ト雖モ矢張窃盗強盗ノ字ニテ之ヲ区別スヘシ仮令其名ハ異リトモ其実ハ同シク別ニ不都合ナケレハナリ

ボアソナード

然リ日本文ハ窃盗強盗ノ字ヲ用テ之ヲ区別スルトモ宜リ
而シテ此盗罪中ノ重キ情状ニモ窃盗ト強盗トニ仍テ之ヲ区別セントス

鶴田

然リ此重キ情状トハ窃盗ニテハ例ヘハ白昼家主ノ不在ニ乗スルカ又ハ午睡中ニ乗シ窃ニ忍ヒ入リ窃取スル夜間門戸ヲ破壊又ハ攀援【はんえん】シテ忍ヒ入リ窃取スルトハ其情状ニ軽重ノ違ヒアルノ類ヲ云フカ

 
ボアソナード

然リ此重キ情状トハ即チ場所ト時ト方法ト人トニ仍テ重ク罰スヘキ者ヲ云フ
例エハ「水路街道」「夜間」「兵器ヲ携帯シ又ハ面部ヲ覆ヒ」「僕婢手代」ニテ盗罪ヲ犯シタ時ハ之ヲ重ク罰スヘシト為スノ類之レナリ
即仏国刑法ニ於テ重ク罰スル所ノ者トス

鶴田

支那及日本ノ賊盗律ニハ従前窃盗強盗ノ区別アリ而シテ其窃盗ノ内ニハ矢尻切ハ之ヲ重ク罰スル等ノ小区別アリ又強盗ノ内ニモ人ヲ傷スレハ之ヲ重ク罰スル等ノ小区別アリ故ニ此賊盗律中ニ於テ強盗ト窃盗トノ区別ハ必ス之ヲ分チ而シテ各其重キ情状アル時重ク罰スルトノ法ヲ立テントス
然ルニ仏国刑法第三百七十九条以下ニハ窃盗強盗ノ区別ナク此刑法ノ立方ハ太タ交互錯雑セリ故ニ之ハ日本従前ノ刑法ノ如ク窃盗強盗ノ区別ヲ判然ト分チ其区別ニ付テ又各重キ情状ヲ区別セントス

ボアソナード

日本従前ノ刑法ノ如ク窃盗強盗ヲ判然トハ区別シ難シ之ハ国語ノ異ル所ヨリ生スル差支ニテ固ヨリ已ムヲ得サル訳ナリ然シ仏国刑法第三百七十九条以下ハ太タ交互錯雑シテ宜シカラス故ニ一概ニ同刑ニ倣ヒ此刑法ヲ作ラント云フニアラス
然シ何レニモ窃盗強盗ノ字ハ仏文ニ適当ノ原語ナシ

鶴田

然ラハ先ス仏語ニテ所謂単一盗ヲ日本語ノ窃盗ト見做シ又其暴行脅迫ヲ為シタル盗ヲ同ク強盗ト見做シテ盗罪ノ刑法ヲ議定スヘシ即盗罪各罪中ノ首メニ単一盗ヲ置キ而シテ之ニ各種ノ重キ情状ヲ附記シ其ノ次ニ暴行脅迫ヲ為シタル盗ヲ置キ而シテ之ニ亦タ各種ノ重キ情状ヲ附記スルノ順序ヲ以テ之ヲ立テンコトヲ要ス
【後略】

 
さてここからは私の解釈なのですが、強盗とは「暴行による盗罪」、窃盗とは「暴行によらない盗罪」を指し、そしてここで言う暴行行為の対象は財物ではなく被害者であるとすれば、ある程度の解決は可能です。ひったくりはあくまで財物に対して有形力を行使しているものの人間に対しては力を作用させていないから窃盗に入るのであり、そして窃盗でいう「ひそかに」というのは「犯行が誰にも認識されていない」などという意味ではなく「被害者の身体に暴力を与えない」という意味である、と。
上記文書の中での名村の説明でも「暴行を用いざる盗を窃盗と云い、暴行を用いたる盗を強盗と云う。」とされているとおりです。
 
しかしそれでも、本来の窃盗の意味は「公然ではない」であるはずだ、という疑問が残ります。
これについてはおそらく、盗罪内において区別すべき重要な差異が「暴行があったか否か」だからであり、それゆえ「暴行を用いる盗罪」と「暴行を用いない盗罪」の2種類の類型が、いわば論理的に存在したと思われます。そして、それ以外の基準、たとえば犯人の人数や身分、犯行の時刻や場所による差異というものがそれほど重要ではなかった、あるいはこれらの基準ごとに細かく犯罪類型を分けてしまうと煩雑になる、と考えられたのでしょう。
そうすれば、「暴行を用いない盗罪」という類型が存在することになりますが、この類型に属する諸犯罪(スリ、置き引き、空き巣など)には、暴行を用いていないという共通点しかないのです。そこで、それらをひとまとめにした呼称には、その典型例である「窃盗」を使った、というわけです。
 
となると、窃盗罪における「暴行を用いない」の部分は、可罰性を基礎づける要素ではなくなります。ちょうど、非現住建造物等放火罪(109条)の「現に人が住居に使用せず、かつ、現に人がいない」という要件と同様です。これは、人がいないことが悪いことだというわけではなく、単に、人がいれば現住建造物等放火罪(108条)に該当するけれども人がいなければそれには該当しないだけ、という理屈です。補充関係です。
このような「暴行を用いない盗罪」、あるいは「強盗以外の盗罪」(弱盗?)について「窃盗罪」の名を当てるのは不適切かもしれません。しかしたとえば、「菜食」という語を辞書でひくと、「(1)野菜を主に食べること(2)転じて、粗食の意」とあります。ここで、粗食とは野菜を食べることとは限らないはずです。なのに、菜食が粗食の意味で使われるのです。これと同様に、窃盗が弱盗の意味に転じたという解釈は、日常用語のレベルにおいても許されるのかもしれません。

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引用文中の私が判読できなかった部分(【「ホ」のような字】、【うかんむりに「之」】)についてhakurikuさまからご教示がありましたので、修正しました。ありがとうございます。