山中敬一「刑法各論」(その1)

不定期連載です。
そろそろ法律ネタを書きたいな、と思いまして。
 
・水道損壊等罪(「各論II」534ページ)
山中説では「本罪は、公共危険罪ではなく、水道の利用妨害罪である。」としていますが、しかし条文の位置、および業務妨害罪・水利妨害罪等との比較からして、やはり公共危険罪と解するほうが自然でしょう。水道水の供給停止は公衆の健康に危険を及ぼす程度が高い、と考えることはじゅうぶん可能であり、この点で「その罪質ないし効果において水道汚染罪と近似する」(「基本法コンメンタール」182ページ・大野平吉執筆)という見解のほうが妥当であると考えます。
 
・激発物破裂罪(「各論II」507ページ)
本罪の未遂罪が処罰されるかどうかについて、山中説では刑法3条1号を根拠にしています(危険性の程度が放火罪と同等であるという点も根拠にしていますが)。しかし3条1号が未遂犯処罰の根拠とはならない点は既に書きました(id:kokekokko:20040730#p2)。さらに山中説では、本罪の予備罪が成立しない点を、3条1号で触れられていないという点から導いています。しかし、3条1号に予備罪の言及がないのは、激発物破裂罪の予備行為を処罰しないことを規定しているのではなく、単に、かかる予備行為については日本国外の日本国民に適用しないといっているに過ぎません。「3条1号に書いているから犯罪成立である」という以上に、「3条1号に書いてないから犯罪不成立である」という見解は不当です。なぜなら、3条に列挙されていない犯罪はたくさんあり、それらが「3条に列挙されていないという理由で犯罪の成立を否定される」ということはないからです。
 
・不法領得の意思(「各論I」249ページ以降)
山中説では、不法領得の意思は排除意思・利用意思ともに必要であり、故意(山中説では構成要件要素)に類似していて犯罪の個別化に資するものである、とされています。また、不法領得の意思は違法要素でも責任要素でもありません。
山中説には、主観的要素が違法要素にも責任要素にも属しない、という傾向があります。たとえば、事実的故意は犯罪個別化のための構成要件要素であって、違法要素でも責任要素でもないとしますし(「総論I」176ページ)、違法性の意識については現実の認識は犯罪成立にとって不要であってその可能性が責任を基礎づけるのであり(「総論II」617ページ)、防衛の意思についてはそれが存在することが不法結果発生の危険性を否定するために犯罪不成立となる(「総論I」438ページ)、とします*1
さて、山中説からいくと、不法領得の意思が違法要素にも責任要素にもならない、というのは筋が通っているといえます*2。また、「行為者の内心に存在するある種の心理状態」が直ちに責任を基礎づけると考えるのであればその考えは心理的責任論の発想であるという、責任論における従来の問題意識とも合致します。
ところで、一方で山中説は、領得罪と毀棄罪の相違が責任の差および一般予防の差であるとします(「各論I」443ページ)が、やはり一般予防を持ち出すのは不適切なような気がします。非難の程度ではなく「みんながやりがちな行為を厳しく処罰する」というのは、一般予防が「他人のために処罰することを正当化するものであり、人間を道具化し、人間を自律的な人格者として扱うものでない」(「総論I」55ページ)という記述、およびロクシンの責任理論について「刑罰論として「予防論」を採る点を除いては、原則的に支持しうる」(「総論II」555ページ)としている記述と整合しているとはいいにくいと思います。
ここは、両罪の相違が責任非難の程度の相違によると言いきるか、または財産犯の保護法益は物の財産性そのものではなく財産取引の公正であると言ってしまうかのいずれかの方がすっきりすると思います。

*1:ただし、その一方では「故意は、違法性の意識を喚起するに適した事実の認識(構成要件的故意の提訴機能)でなければならず、責任非難を根拠づけるものでなければならない。」(「総論I」281ページ)や「責任論においては、行為者の主観的ないし個人的事情を考慮して、その行為が非難に値するか、また、刑罰の目的に照らして処罰するに値する非難をなしうるかどうかが判断される」(「総論I」119ページ)といった、主観的要素が責任要素になりうるともとれるような記述もありますが。

*2:あくまで、山中説からいくと、ですが。