人と胎児の区別(その2)

2.議論の視座と解決(つづき)
さて、山口説は、通説である一部露出説に対して異議を唱えます。客体の範囲を独立侵害可能性によって決定するのは妥当ではない、とするのです。たしかに、人かどうかの判断は、その客体の持つ性質・価値によって決められるべきであって、侵害行為の態様によってのみ決められるべきではありません。
さらに山口説は、「これ(対象が目で見える以上は人である、とする一部露出説の見解)は「感覚的には」理解しうるが、目で見えるか否かで保護の程度が著しく異なることを合理的に説明できるかには疑問がある」として、一部露出説を、感覚的基準を採用するものであると批判します。
ただ、この山口説(「問題探求」)における全部露出説の根拠であるところの「出産という過程を経たことによる客体の価値の変化」というのもまた、感覚的なものに過ぎないのではないでしょうか*1。出産(ここでは全部露出)が持つどのような意味が、胎児を人へとするのか、という点が依然不明です。一部露出説は、胎児保護規定の本質を、母体に依存する存在であるために独立人よりも弱い保護となる、とします。母体なくして胎児は生存できないという両者の関係が解消された時点で、人として保護されうるというのならば、一部露出して母体より物理的に独立する時点での客体の価値変化を認める一部露出説は、十分に説得力を持つと思います。
なお、「客体の価値の変化」を物理的基準ではなく生物的基準によって判断するのであれば、陣痛開始の時点で胎児は母体への生物学的依存を解消している、ともいえます。これに対して「しかし、独立生存可能性といった、生物学的・医学的な要素を「人」の本質とすることには、疑問の余地がある。「人」は、生物学的・医学的にどれほど弱く、瀕死の状態にあったとしても、「人」として保護されなければならないというのが前提である。」(辰井聡子「刑法における生命の保護」ロースクール刑法各論8ページ)とされることがあります。ですが、生物学的基準には「独立生存可能性」だけでなく「母体への生物的依存性」という要素もあり、母体から物質を受け取ることにより生存している胎児は、生物学的基準によって「人」ではないと評価される、ということも可能なはずです。そもそも、出産開始説の本質的論拠は、この点にあったはずです*2
 
また、山口説(「問題探求」)は「サリドマイド事件」や「水俣病事件」の例をあげて、母体内の胎児に母体とは独立に加害しうる点を指摘し、直接加害可能性が人の基準とはなり得ないとします。母体内においても母体とは独立して(直接)胎児を侵害することが可能である以上、もはや(母体とは「独立に」侵害を加える可能性が生じた以上、「人」として保護に値するという論拠は)維持できない、とします。
しかし、これについて、サリドマイド事件や水俣病事件のように、母体が胎児の意思・作為とは無関係に食物を摂食し、母体がこれを消化吸収し、母体を通じて毒物が胎児内に侵入したこれらの例が、なぜ「母体とは独立して直接的に」と評価されるのでしょうか。これらの例においてもやはり、胎児はその生存について母体に依存している(母親の保護・支配を受けている)としたほうが合理的だと思います。
 
3.人の始期と堕胎概念
ここで、人の始期と堕胎概念との関係から、問題が提起されます。堕胎を「自然分娩に先ち人為を以て胎児を母体より分離せしむる」(大判明治42年10月19日刑録15輯1420ページ)と定義するならば、自然分娩以降の行為について堕胎罪が適用されなくなります。そして、「人に対する罪」の適用を一部露出あるいは全部露出の時点以降とすると、この間、つまり自然分娩以降で一部露出あるいは全部露出以前には、人でも胎児でも処理されなくなります。この処罰の間隙に対処するためには、一部露出説や全部露出説では、堕胎概念の変更が必要となります。
その変更方法を山口説では、「胎児殺という一元的把握への再編」に求めます。つまり、上にあげた間隙を埋めようとして単に「自然分娩期での危険な人為的排出」を堕胎に含む(木村亀二・各論34ページ)とすると、排出が自然であるような状態での排出行為を、堕胎として扱うことになります。これでは胎児への危険惹起を堕胎とすることになり妥当ではありません。ですから山口説では、胎児殺をもって堕胎とします。
 
さて、先にあげた大判明治42年では、明確に「胎児の死亡は堕胎の要件ではない」としています。これに従うと、堕胎は人為的排出として一元的に把握されており、堕胎罪の保護法益(胎児および母体の生命・身体、ここでは不同意堕胎罪を除く)からみると危険犯となります。いっぽう、母体内での胎児の殺害もやはり堕胎であるので、堕胎罪に侵害犯の側面があることも否定できません。これでは、通説的理解によれば危険犯と侵害犯とが同一の構成要件に併存することになり、「これは、構成要件の解釈の基本的方法に反するであろう」(平野龍一「堕胎と胎児傷害」警研57巻4号3ページ以下)との批判を免れえないでしょう。
これについては「このように、堕胎罪を侵害犯として構成するのは、堕胎罪を危険犯―おそらくは具体的危険犯―とする現行法の建前に反する見解であって、立法論の域を出ないものと考える」(大谷実「刑法における人の生命の保護」団藤古稀2巻343ページ)との批判もありますが、現行刑法上は堕胎についてその結果要件について明示していない以上、解釈による堕胎概念修正も、不可能とはいえないと思います。
考えてみると、もともと、堕胎とは胎児の殺害を目的として行うものであり、方法の難易の問題や母体の安全の問題から、排出という方法が取られているわけです。そうすると、排出という方法ではなく胎児殺という結果を要件とする侵害犯としての構成が、合理的です。ただ、排出後の独立生存が不可能な時期については、排出の時点で既遂とする構成も可能であり、その際には、排出行為は当然に胎児殺に直結するとして、この時期の排出を胎児殺とともに堕胎類型に並べる(小暮得雄ほか編・各論14ページ以下(町野朔執筆))ことになります。
「・・・堕胎罪の実質は胎児を殺すことにあり、殺さない場合でも、胎児の生命に対する具体的な危険を及ぼす行為に限られるべきである。それ故、排出後生存可能な時期(現在では満23週以降)に至れば、単なる自然の分娩に先立つ排出を誘発する行為は、堕胎と評価すべきではない」(前田・各論2版64ページ)とする説は結局、町野説と結論において同一となります。この意味で、堕胎罪では、具体的危険犯と侵害犯が併存しうるのです。
4.小括
明治42年前後の判例は古い判例である。当時でさえ現実に胎児が死亡した場合に限られていたが、現在は時代も変っている。ただ判例を引用してこれに従うだけで、いいものであろうか」(平野・前掲)との指摘のとおりです。胎児性致死傷についての判決に対しては学説のほとんどが反対する中で、さらに時代背景が異なる状況のもとでの判決文の文言を所与の前提とする必要は、ないのかもしれません。
 
この先は、もう少し学説を検討してから、母体外に排出された胎児の法的地位について考えてみます。

*1:これについて山中・各論I7ページでは「現在、出産時の胎児死亡の危険性が極めて低いことからすれば、説得性をもたない。」と批判します。

*2:詳述すれば、母体への生物的依存性という基準は、母体からの物理的包含性という基準と同様に、「生命として弱く瀕死であったとしても「人」として保護する」という点に異論はないのです。