人と胎児の区別(その4・完)

6.議論の整理(つづき)
前回の続きです。表を再掲します。

生育可能性なし生育可能性あり
母体内A1A2
母体外B1B2
(3)上記(2)の客体を殺害する行為の評価(つづき)
次に、通説的見解である、堕胎を「(母体内での)胎児殺」または「母体外への排出」であると把握する見解、つまり表でいえば、Aを殺害する行為、およびAを人為的にBにする行為を堕胎であると把握する見解についてみてみます。
この見解の場合は、ヒト生命体がB1またはB2の段階に達した時点で堕胎罪は既遂となる、という点に注意すべきです。つまりBの生命への侵害行為は堕胎罪では評価しきれないので、別罪を構成することになります。つまり、ヒト生命体の生存可能性の有無にかかわらず、母体外に排出されたヒト生命体への殺害は殺人罪を構成する見解になります(山中、中森、曽根)。「優生保護法の認める許容範囲は中絶行為であって、たとえ生命保続の可能性がないとしても、母体外へ生きて生まれた客体への侵襲をも許容するものとはいえないであろう」(曽根威彦・重要問題4ページ)。
しかしこれらの見解でも、(とりわけB1(生育可能性なし)の客体に対して)不作為によって死なせる行為については、作為義務(延命義務)や作為可能性がないことを理由に、不作為犯の成立が否定される場合があるとします。第三者による侵害はともかく、堕胎行為者が作為義務を負うのかについては、疑問的に解されています。先述した判例(最決昭和63年1月19日)についても、被告人について保障人的地位を認めた理論構成(原田国男・ジュリスト906号57ページ、また原田・法曹時報41巻4号1290ページ参照。「客体の生育可能性」「その認識」「医療措置の容易性」「先行行為(堕胎)」「引受行為」を根拠としています)に対して、そのような保護義務は認められないとする批判(たとえば金沢文雄・法学教室92号103ページなど)があります。
 
これに対して、堕胎を二元的に把握しつつ、異なった解決をする見解もあります。人としての属性を獲得する時点を生育可能性発生の時点に求め、これ以前のヒト生命体への侵害行為は堕胎罪で評価するという見解(井田)、あるいは母体保護法の趣旨により1Bの殺害については堕胎罪で評価されつくしているとする見解(前田)があります。
なお、前田説では、堕胎の要件である排出を「侵害を意図した加害行為」ととらえて、殺害を意図しない排出行為についてはそれ自体堕胎罪を構成しない、としています。しかし前提として、堕胎罪を生命への危険犯(具体的危険犯)としているわけですから、それならば自然分娩に先立つ排出行為は胎児の生命への危険を発生させていると考えるほうが、すっきりすると思います。

7.補論
辰井・ロースクール刑法各論7ページでは以下のような批判があります。

ある見解は、胎児殺をもって堕胎としたうえで、排出された子供に生育可能性がない場合には、作為・不作為ともにその致死は堕胎罪以外の罪を構成しないとする(西田・各論24頁以下)。しかし、生育可能性があろうとなかろうと、そこには「人」が生きているのであり、これを死亡させることが、人の生命侵害にあたらないとするのは難しい*1

しかし、そうであるならば、生命体が母体内にいようが母体外にいようが「人」としての価値は変わらず*2、「そこには「人」が生きている」という根拠で人に対する罪を成立させるのであるならば、胎児に対する罪の成立する余地がなくなってしまいます。西田説は生育可能性の有無で客体の価値を分けているのではなく(ここは同じく胎児殺一元で把握している山口説との相違ですが)、「母体保護法での違法阻却は生産児の殺害に及ばない」としており、ただ作為可能性の有無による作為義務の有無の差異があるとしているのです。
あるいは、露出によって胎児が人になるのだというのであれば、なるほど上で引用した批判は筋がとおりますが、そうなるとこんどは、「中絶する際には必ず胎児を母体内で殺害しなければならない。なぜならば、胎児が生きたまま母体外に出てしまうとこれを保護しないと遺棄致死あるいは殺人に問われるからだ」となってしまいます。そうなると、排出という中絶手段を採用することで母体を保護しようとする母体保護法の趣旨が、没却されてしまいます。私はこれには反対です。
 
また、大嶋一泰「胎児と人の限界」百選各論4版9ページでは以下の記述があります。

胎児が発育の過程で母体外に排出されても、生命存続の可能性が肯定される周産期、すなわち胎生から母体外生活への移行期に入れば、その段階から胎児を外部からの直接的な侵害の可能性に対して、母体とは別個独立の生命体として殺傷罪等の規定により刑法上保護する必要性が生ずるから、一部露出説が妥当である。

ですが、このような根拠では、むしろ分娩開始説(あるいは出産開始説)に至るのが素直でしょう。実際、「胎児への外部からの直接的な侵害」が最も問題になるのは、出産時における医療過誤であり、その場合には一部露出説ではむしろ保護が遅いのです(この点については、林・各論が人の始期の問題について詳細に記述されています。11ページでの分娩開始説の記述は、非常に参考になります。また、岡上雅美「人の始期に関するいわゆる陣痛開始説ないし出産開始説について」筑波法政37号67ページ以下)。

*1:引用者注:前提として、西田説であっても排出行為以外の原因での死亡(たとえば第三者による殺害行為)の場合は別罪を構成するとしています。

*2:人と胎児の区別について、露出説以外の説を採る見解は、このような前提を有していることが多いです。