人と胎児の区別(その3)

5.母体外に排出された胎児の法的地位
ここでは、堕胎によって排出された「胎児」(以後「人」と「胎児」をあわせたものを「ヒト生命体」と表します)がなお生存している場合に、これに加害行為をなせばいかなる犯罪が成立するのかを問題とします。この問題を検討するにあたり、「ヒト生命体」が母体外にて生育(延命ではなく)する可能性があるかどうかが、考慮されることがあります。この生育可能性も、以下の2つがあります。
まず、一般的(抽象的)生育可能性は、個々の胎児の事情を考慮することなく、およそ段階的に、妊娠経過週によって、医学的一般的生育可能性が認められる段階かどうかで判断されます。現在のこの基準(満22週)は、母体保護法での人工妊娠中絶が(一定の要件のもとで)認められるかどうかの基準(厚生省の通知による)であり、この基準に満たなければおよそヒト生命体の生育可能性はないとされています*1
そして具体的生育可能性とは、個々のヒト生命体の状態によって判断される、固有の生育可能性です。
 
さて、まずは生育可能性のない段階で母体外に排出された胎児(ヒト生命体)の法的地位について、おおまかに検討してみます。
重要な点は、この時期における胎児の排出は、人工妊娠中絶として、一定の要件のもとに違法性が阻却されるという点です。「母体外にて生育する可能性がない」生命を母体外に排出するわけですから、当然、この生命の殺害をも含めて違法性が阻却されるわけであり、言い換えれば、胎児殺が認められているわけです*2
ここで第一に、排出されたヒト生命体が人であるかどうかについて、見解が分かれます。これを「人」であるとする説は、動物としての呼吸や心臓拍動の性質を備えている以上は人であるといわざるを得ない、とします。とすれば、一般的生育可能性は考慮されず、具体的生育可能性のみが考慮されることになります(これに対して、いかなる生育可能性をも考慮しないという見解もあります。後で述べます。)。そして、具体的生育可能性がない場合には、このヒト生命体に対する作為義務も保護義務も発生しないために、生命侵害についての不作為犯は成立せず、作為犯のみが成立する、とします。いっぽう、具体的生育可能性がある場合には、作為犯・不作為犯ともに成立するとします。
「そうすると『23週以前』【引用者注:当時の基準】と診断されて人工的に排出したところ、その胎児が生育可能な【引用者注:ここでは具体的生育可能性】未熟児である場合もありうるということになり、この場合には人として保護に値しないとはいえなくなるというようになり、妊娠期間を標準としたのでは妥当な解決が得られないように思われる」「このようにみてくると、胎児と人との区別を生育可能性【引用者注:ここでは一般的生育可能性をさすものと思われる】の有無という基準に求めるのは妥当でないことが分かるであろう。そもそも、人の生命があるということは、動物としての機能つまり自発呼吸と心臓の拍動があるということにほかならず・・・」(大谷実「堕胎により出生させた未熟児を放置した医師につき保護責任者遺棄致死罪が成立するとされた事例」判タ670号57ページ)とされます。
 
しかしこの見解では、そもそも母体保護法での中絶行為が堕胎罪の違法性を阻却する点について、説明が苦しいです。母体保護法では、一般的生育可能性のない胎児について、単に母体外に排出することを許容しているだけではなく、生命侵害をも許容していると解されているからです。「独立の生存能力を欠く以上は「母体による保護」が刑法で守るべき法益であり、堕胎罪の対象と考えるべきである。そして、堕胎の結果母体外に排出され、その後に生命が絶たれたことは、堕胎罪に評価し尽くされていると解されねばならない」(前田雅英・各論2版13ページ)とされているとおりです。ただ、母体保護法の文言上は、「人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保持することができない時期に、人工的に、胎児及びその附属物を母体外に排出することをいう」(2条2項)として、排出だけを人工妊娠中絶として許容しているようにも読めます。また、母体保護法は、母体の保護を目的としているために、「母体にとって危険である体内での胎児殺」を許容していない、と解することも無理ではありません。
 
つづいて、生育可能性のある段階で母体外に排出された胎児(ヒト生命体)の法的地位について検討してみます。
これについては、当然に「人」であるとされます。出産開始直前の胎児を人為的に排出した場合に、そのヒト生命体が生きていれば、それは未熟児という「人」であることに争いはありません。
妊娠26週経過後の胎児を堕胎、生きていた胎児を放置して死なせた医師について、最高裁は業務上堕胎罪と保護責任者遺棄致死罪が成立する(併合罪)としました(最決昭和63年1月19日刑集42巻1号1ページ)。これに対して、堕胎後の加害行為については堕胎罪に評価し尽くされているので別罪を構成しない、という見解があります。「しかし、当初から胎児の死を企図して行われるのがほとんどの胎児排出措置の後の単なる放置に保護責任者遺棄(不保護)罪の責任を問うことは、殺害を企図して人に切りつけ負傷させて放置したものに保護責任者遺棄罪の責任に問うのと同様、奇妙な帰結である。」「また、胎児を母体内で殺害した場合と比較して、法定刑があまりに大きい差異があるようにも思われる。」(松宮孝明・本件判例研究・甲南法学24巻2号192ページ)。一方、このケースで、後の加害行為を、作為の場合はもちろん不作為の場合であっても、堕胎罪とは別の犯罪として問うことができるという見解もあります。つまり、「いかに瀕死の者であってもこれを殺害すれば殺人である」という前提から、排出された「人」に対して生命侵害行為をなせば、それは人に対する罪を構成するとするものです(たとえば山口説(問題探求))。殺人罪と堕胎罪が成立して併合罪(牽連犯とする見解もあります)となるわけです。なお、ここで堕胎罪が既遂か未遂か*3という問題もあります。
 
6.議論の整理
さて、少々話がややこしくなってきたので、ここで論点を明確にさせておきます。

生育可能性なし生育可能性あり
母体内 A1 A2
母体外 B1 B2
通常の出産の過程は、A1からA2を経て自然分娩に至るというものです。それぞれの時期においてAを人為的にBにするのが「排出」です。
(1)堕胎の定義
これについては、「自然分娩に先立つ時期の排出」「胎児の殺害」という2つの要件があります。判例では「排出」があれば堕胎となるとされていますが、この要件だけですと母体内での胎児殺が堕胎と評価されなくなります(なお、団藤・各論446ページでは、母体内での胎児殺を排出の一方法であるとしています)。というわけで多数説は、「自然分娩に先立つ時期の排出」または「胎児殺」の要件を満たせば堕胎罪が成立する、とします(中山、曽根、山中、大谷(各論63ページ)、前田)。ところがこれに対して、堕胎罪の保護法益が第一に胎児の生命であるという点を前提に考えると、一つの構成要件に危険犯(「排出」)と侵害犯(「胎児殺」)の両方が成立するのは不当である、という批判がなされることがあります。あるいは、胎児の生命に対する危険を惹起する行為一般を処罰するというのでは、処罰範囲が広すぎてしまう、という批判もなされます。よって、「胎児殺」に一元化する見解が存在するわけです(西田、山口、林)。
 
(2)母体外に排出された「ヒト生命体」の法的地位
この問題は、上の(1)の問題と相互に関連しながら検討する必要があります。
まず、(1)で堕胎を「胎児殺」に一元化した場合、母体外に生きて排出された時点では堕胎罪は既遂に達していません。そこで、上表のB1とB2につき、これを「胎児」だと評価する余地があります。しかしB2(生育可能性あり)の場合は、これは生命の価値においては早産児と何ら変わることがないのであり、ですから、あらゆるB2が胎児であると考える見解は見当たりません。
一方、(1)で「排出」を堕胎の要件とした場合には、排出時点で堕胎罪は既遂に達しています。ここで、「排出」された以上は、一部露出説または全部露出説の根拠に従って、「人」になるはずです。ところがこれにつき、一般的生育可能性が存在する時点で「人としての属性」を獲得する、として、これを「人」としない見解があります(井田良・各論13ページ、なお、中山研一・各論にはこの問題につき記述が見当たりませんでした)。これに対しては、人の価値は残りの生存時間にかかわらず等価であり、瀕死の者でも人としての保護をすべきだという立場からの反論があります(甲斐克則「刑法における人の概念」刑法の争点第3版124ページ、また辰井聡子「生命の保護」法教283号51ページ以下)。
 
(3)上記(2)の客体を殺害する行為の評価
堕胎を「胎児殺」に一元化する見解がこの問題をどのように処理しているかを、ちょっと見てみます。
まず、中絶の許容は胎児殺をもカバーするから、B1を殺害しても堕胎の事後行為であり不可罰である、という見解があります(山口・各論29ページ)。これに対して、胎児殺のみが堕胎であるとするのであればその後の殺害行為は殺人罪を構成することになるのではないか、という反論があります(山中・各論80ページ。特に同ページ注6)。たしかに山口説からは、堕胎はヒト生命体の死亡によって既遂に達するのであり、ヒト生命体が生きている時点での行為が堕胎の「事後行為」だというのは無理があります。しかしいっぽうで、「不可罰の行為が、事後の可罰的行為を吸収するという考え方は、罪数論には適合しない」(同)とする批判は、正確ではないと思います。山口説がそう主張しているかどうかはともかく私の理解では、「不可罰の行為(排出行為)が、事後の可罰的行為(殺害)を吸収する」のではなく、「母体保護法の趣旨が、排出行為も殺害行為も不可罰にしている」のです*4。いずれにせよ、胎児殺のみを堕胎罪の要件とする見解は、B1殺害を堕胎に含めることになります。
そしてこの見解だと、B2の殺害は母体保護法の趣旨の外にあるので、殺人罪が成立することになります。ただし、母体内の胎児を殺害した場合には堕胎であるとすることとの関連で、排出が原因で死亡した場合にはたとえ母体外で死亡したとしても堕胎で評価されることになります。そうなれば、母体外で更なる危険を創出した場合には殺人罪(または遺棄致死罪)が成立し、そうでなければ堕胎罪にふくめて評価されることになります。「胎児が母体外への排出行為の当然の結果として死亡するに至った場合に限定すべきであろう」(西田・各論24ページ)とされるとおりです。また、この見解ですと、どのような場合であっても、殺人罪(または遺棄致死罪)と堕胎既遂は両方同時に成立することはありません。
(この項つづく)

*1:井田良・各論13ページでは、それゆえ「法的・規範的観点からの生育可能性」であると説明されます。

*2:もちろん、生育可能性のある段階に至ったヒト生命体であっても、母体の危険がある場合などには、緊急避難として胎児殺は認められます。

*3:堕胎未遂は不同意堕胎罪(215条)のみ処罰されます。

*4:もちろん、このような母体保護法の理解に対しては、異論はあるでしょうが。