医療観察法

■ 高山佳奈子責任能力について」刑法雑誌45巻1号5ページ
心神喪失者等医療観察法を中心とする、いくつかの論点についてふれられています。
ここでは、2つの点について、ざっとみてみます。

精神保健福祉法心神喪失者等医療観察法

精神保健福祉法の処分と心神喪失者等医療観察法の審判との、判断基準についての関係についてみてみます(6ページ)。

しかしながら、同じ措置入院でも、犯罪行為またはその嫌疑を前提にする場合には、新法の制度との間に一部重なりが出てくる。いわゆる検察官通報(25条)は、「精神障害者又はその疑いのある被疑者又は被告人」について、不起訴処分をした時、実刑以外の裁判が確定したとき、および、「その他特に必要があると認めたとき」に行われることとされているが、これらの中には、精神に障害のあるものが、新法の対象となる重大犯罪に該当する事実を、責任無能力者や限定責任能力の状態で実現した場合が含まれうる。

とされていますが、精神保健福祉法の入院と心神喪失者等医療観察法の入院との関係については、「手続」の話か「入院」の話かで異なります。手続のレベルの話なら、精神保健福祉法第25条1項但書により両立しうるのですが、入院のレベルの話ならば、同法44条2項により、医療観察法による入院されている者に対して精神保健福祉法の諸規定は適用されません。つまり、「一部重なり」はないことになります。
ところで、そうなるとたとえば医療観察法の入院処分が下されたときには、精神保健福祉法上の入院制度は適用されないので、その場合でも検察官通報自体はできるのか(措置入院ができない者を対象に通報ができるのか)という問題に突き当たるのですが、高山論文ではそれには触れられていません。いっぽう、医療観察法の観察対象者には措置入院させることが可能であり(医療観察法第115条)、この点ではたしかに対象者の重複があります。この場合に、裁判所によって入院の必要がないと判断された対象者に対して、検察官が措置入院のための通報をすることが適切かどうかという問題がありますが、これもここでは触れられていないようです。そもそも高山論文で引用されている条文の文言は、医療観察法の公布以前のものです*1

責任能力判断と心神喪失者等医療観察法

というわけで、措置入院医療観察法上の入院との関係については特に目立った検討がない一方で、刑法上の責任能力判断と医療観察法上の入院との関係についてはやや詳細に記述されています。
 
山上説に対して「刑罰に適するもの以外を医療に振り向けることで「医療は刑罰を補充する」とする立場がある。」(10ページ)としながら、「つまり、まず責任能力のあるものには刑事罰を科し、ない者には医療適合性がなくとも治療的処分を課すべきことになる。したがって、新法ができても、責任能力の範囲は縮小されない」(同ページ)とあります。
しかし、「刑罰に適するもの以外を医療に振り向ける」のであれば、従来刑罰しかなかったゆえに「刑罰に適するもの以外」(つまり刑罰に適さないもの)にも刑罰を科していた領域についても、「医療に振り向ける」ことができるようになります。つまり、従来は刑罰しか選択できなかった領域については、医療観察法によって責任能力を(部分的にせよ)否定した上で医療を選択できるようになったわけです。にもかかわらず高山論文のように「山上説によると、責任能力の範囲は縮小されない」というのであれば、医療観察法以前の段階で「刑罰に適するもの以外」には刑罰は科されていなかった(つまり、犯罪不成立となるべき者が医療制度の不存在ゆえに犯罪成立となる、という事態が存在しなかった)と主張することになります。しかし、引用先の山上論文では、もちろんそのような記述はなされていません。
そもそも、「医療観察法責任能力の範囲が縮小されるかどうか」という問題は、「従来、医療制度がなかったゆえに責任能力が本来以上に広く認められてきたか」という問題(この問題は、判断基準の「運用上の」問題です。高山・9ページ)と「医療の必要性のために、刑罰を抑制すべきか」という問題とが複合しているはずです。これらの両方にNOと答えてはじめて、「医療観察法によっては責任能力の範囲は縮小されない」という結論を導けるわけです。これら両方の問題は「刑法の受け皿としての治療制度を認めるか」という点では同質ですが、しかし角度を異にするものです。
高山説からの理解によると、山上論文は後者の問題についてNOと答えていますが(それ自体疑問があります)、前者の問題には何も答えていないわけです。単に「医療は、刑罰を補充するものである」としているにすぎません。そうなると、この見解をもって「したがって、新法ができても、責任能力の範囲は縮小されない。」と断定することはできないと思います。
 
高山論文で紹介されている4つの説が、2×2のクロス構造をとっているのであれば理解できるのですが、どうもそうではなく、問題Aについて答えているA1説とA2説、そして問題Bについて答えているB1説とB2説、というように並べてあるのです。そのうえで、A1説とB1説という、本来別々の問題について検討している説が並べられているので、わかりにくいかなという気がしました。
さいごに、山上教授の、判断基準の「運用上の」問題についての言及を紹介しておきます。

【判決について(ジュリスト2004年3月増刊号88ページ)】
近年の裁判では統合失調症者の責任を一層厳しく問う傾向が見られ、ドイツでは異論の余地なく責任無能力と判定されるような病勢期の統合失調症者に対しても有罪判決が下されることが、稀ではなくなった。
判例に見られるこのような変化は、我が国の精神医学・医療の側の問題を反映する面もある。第1に、この間に精神科医療の開放化が進み、精神病院はかつてになっていた保安施設的な役割を、もはや担えなくなった。精神科医の側にも、強い犯罪傾向を有する精神病者には厳しく責任能力を認めて、医療の側から排除しようとする動きも生じた。

【検察官の判断について(同ページ)】
新法の施行により不起訴後の触法精神障害者に対する専門的治療の場が保障されることから、検察官の裁量の幅もこれまで以上に広がる余地があり、このことも、検察官の責任能力判定基準に影響を及ぼす可能性があるであろう。

【鑑定について(同89ページ)】
判例の扱いについては、急激な変化は生じないかもしれない。しかし、従来しばしば困難とされてきた、鑑定留置のための適切な場の確保、鑑定期間の短縮、判決後の適切な医療の確保等をめぐる問題が、新法施行により解消に向かうと思われ、このことが裁判における鑑定や責任能力判定のあり方に、少なからぬ影響を及ぼす可能性はあるであろう。

*1:精神保健福祉法は、医療観察法の附則によって改正されています。