レスありがとうございます。

雑記さまからレスをいただきました
ではさっそく。
私が書いたのは、「文系の社員も「あの契約は私が取った」と主張するかもしれない」みたいな文章はともかく、

勿論ある程度の報奨はあってもいいと思うけど,発明してしまったらそれは自分のだっていう姿勢は何か違うと思う(Wasted Time・1/31)

くらいになると、それほど意味がわからないわけではないと思った、ということです。
まず原告を批判しているようだ、でもっておそらくその原告の主張を認めた判決も同時に批判しているのかな、そして特許制度への異議ではどうやらないらしい、と私は読んだわけです。結局、ご本人が「私としては,分けて考えるという視点は明らかに欠如していたので」とおっしゃったようなので、私の読み違いだったわけですね。
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また、「今回の判決に関する『世間一般』の感想には,立法論と解釈論・事実認定論を区別していないものが多い」とのご趣旨はもちろん読み取れましたし、「分かりにくい書き方」などではないと私は思います。ただ、解釈論と立法論は文章を読んだだけではハッキリ区別がつくものではなく、

単独で存在する技術などあるわけない。金にならない多くの基礎研究や実験技術に支えられて成立する訳で、儲けた金すべてがその特許、研究に直接関わった方だけではなく、それを支えた基礎の部分を考慮に入れなかった裁判所の判断には疑問を抱かざるを得ない。(gobbledygook・1/31)

は、原告の貢献度を大きく認めすぎた裁判所の判断への批判とも読めるわけで、私のあげた例でも

「被告人の行為は、法○○条の規定に従って、有罪とする」という判決に対して「妥当性を欠く」と批判した場合

というような批判を読んだだけでは(1)被告人の行為を法○○条にあてはめたことへの批判なのか(2)法○○条への批判なのか、はよくわからないわけです。
ですが、書く側は(1)のつもりで書いてますし、読む側もこの批判を条文への批判だとは読まないわけです。(2)の場合はハッキリと「条文の不備」なり「現状にそぐわない規定だ」と書きます。

で、この場合は、読む側がそのあたりをふまえて読むべきではないか、制度がおかしい時には書く側がそう書くはずなんだから、というのが私の2/2の趣旨です。

とはいうものの、それはどうやら私の「職業病」なのかもしれません。ネットやマスメディアでの意見はそうはいかないようですから。
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hakurikuさまならご理解いただけると思いますが、職業的に判批を書く場合は、まずは射程、そして従来の学説・判例からの位置づけを書きます。基本的にはそれで充分であって、特定の学説や立場からみて「不当な判決だ」という批判をするのですらあまり良くない(そういうのは自分の論文で書くべき)とされることもあります。ましてや立法論なんて、書くとしても最後にちょっと書くくらいです。
学説や立場と比較して判決を評価する文章は「論文」になるのですが、それでもある法制度の存在について是非を問うというのは、狭義の法「解釈」学の領域ではないです。
で、これらの文章のどれが正しくてどれが間違っているというのはないのですが、どういう文章が要求されるかというのは確実に存在します。判決について、射程を知りたい人もいれば妥当性を知りたい人もいるわけで、ですから立法論をブチまけた判批なんていうものは役に立たないわけです。
というわけで、

しかし,このレスを『世間一般』の方が読まれたら不快に思われるかも知れませんね。馬鹿にしているわけではないのですが。

私からも付け加えさせていただきますと、もちろん「馬鹿にしている」わけではなく「読み手ごとに要求が違うこともあるし、論点を明確にしようよ」と呼びかけているのです。