集団強姦致死罪につき、殺意がある場合の処理(5・小完)

前回(id:kokekokko:20041223#p2)のつづき。初回は12/16(id:kokekokko:20041216#p2)。
ここで、現在のところの私見をまとめておきます。
 
・現行法上、致死と致傷は書き分けられていないが、これは両者を同一に扱うという趣旨ではない。
「条文上なんら書き分けられていない致死と致傷をこのように別異に扱うのは、行き過ぎた実質的解釈であるとの批判も予想される。」(前田・各論2版118ページ)としながらも致死において殺人罪との観念的競合を認める見解については、やはり「致傷と致死とで取扱を異にする点に問題がある。」(中山・概説刑法II76ページ)と批判されています。
しかし、犯姦条例(明治6年)から明治28年草案までは、致死と致傷とで法定刑を分けるというのが刑法の方針でした。また、明治33年草案では致死と致傷とを区別していませんが、そこでは「これ通常の傷害罪に比し其の情状重きものあるを以てなり」、つまり傷害罪と比較して法定刑を決めたとしています。ならば、傷害の罪については致死と致傷とで法定刑に差異があるわけですから、当然に、強姦致死と強姦致傷でも法定刑に差があるはずです。
もともと強姦致死傷罪については、明治8年草案以来、傷害罪と比較して刑を加重するという方法で法定刑を定めていました。この点は、現行刑法についても同様です。刑法理由書にも「これ通常の傷害罪に比し其情状重きものあるを以てなり」とあります。強姦致傷については傷害罪(暴行致傷としての傷害罪も含みます)と比べるのであれば、強姦致死は傷害致死罪と比べるというのが当然です。
 
・強姦致死傷罪の法定刑は、殺傷につき故意がない場合を基準に定められている。
これについては、明治16年ボアソナードが提出した意見書に記されています。「若し犯者においてわずかもこれを死に致すの意なかりし時においても、また均しくこれを死刑に処するが如くんは、これ実に過酷に過ぐるの甚きものにしてそもそもまた刑律の諸原則を干犯するものと云はざるを得さるなり」。つまり、殺意のない者に死刑を科すのは過酷である、との見解です。
実は、この当時には何度も、死刑制度の廃止が議論されていました。それとともに、なるべく法定刑から死刑を除外しようという主張もなされました。結局死刑制度は存続したのですが、ここでの議論の結果、天皇・国家への犯罪、公共危険犯、そして「故意に人を殺した犯罪」について死刑を科すというおおまかな方針が立てられました(たとえば放火罪については、法定刑から死刑を除外すべきであるという主張はかなり強かったのです)。その流れのなかで、強姦致死について法定刑の大幅な引き下げが検討されました(「死刑のみ」から「無期または五年以上の懲役」へ)。
そうであれば、致死結果について故意がある場合には、法定刑に死刑がある犯罪(つまり殺人罪)をもって処断するというのが法の趣旨である、というべきでしょう。人質殺害罪などの故意殺人犯は、現行刑法制定後に新設された構成要件ですが法定刑に死刑が選択できます。しかし強姦致死傷罪については旧刑法以来のどの法令・草案でも、戦時特例法と戦時刑事特別法を除いて、法定刑に死刑がありません。
 
・強姦致死罪と殺人罪とは、両方成立しえる。
殺人罪の法定刑の下限が低い理由としては、酌量の余地のあるものがあるからということが挙げられています。また現行刑法181条の法定刑の下限が低い理由としては、致傷の罪や強制わいせつ致死傷の罪と同一の条文で法定刑が定められているからと説明されます。
とすれば、これら両罪にあてはまる「殺害の故意のある強姦致死」の場合では、酌量の余地が考えにくいし、また実際に被害者が死亡している以上は致傷と同一のものと考えることもできず、よって、両罪の「法定刑が低い理由」にどちらもあてはまりません。
旧刑法では、犯罪の実行を容易にするためあるいは罪を逃れるために人を殺した者には、故殺であっても謀殺の刑を科していました(296条)。強姦致死の刑を、傷害致死の刑に加重して定めるというのであれば、殺意ある強姦致死の刑は、殺人の刑に加重して定めるというのが一貫しています。そして現行法上、「殺人の罪の法定刑に比較して刑を科す」ことを裁判官に命じたければ、殺人罪を成立させるしかありません。よって、強姦致死傷罪が故意殺人を予定していないという前提に立つ以上、殺人罪を成立させない見解は不当です。
そして、一つの結果を二回評価することを徹底して嫌う見解は、致死傷という重い結果を予定していない強姦罪(177条)を、現実の死亡結果がある場合に適用させるという問題があります。なので、強姦致死罪と殺人罪が成立するというのが、最後に残った見解です。これに対しては「一つの結果を二回評価する」と批判されますが(前田、中森など)、それならば、殺意と殺人実行行為を殺人罪にて評価しつつ殺害結果は強姦致死罪で評価するという「強姦致死罪と殺人未遂罪」の観念的競合でどうでしょうか(私は採りませんが)。具体的事実の錯誤における一故意犯説のように「故意が評価され尽きる」から過失なのだという考え方があるのなら、ここで「結果が評価され尽きる」から未遂なのだという考え方を採っても悪くはないでしょう*1
話をすこし戻して、観念的競合では行為を二度評価しています。つまり、強姦における姦淫あるいは手段としての暴行が、殺人における実行行為としても評価されているわけです*2。犯罪の客観においてどこまでが行為でどこからが結果なのかというのは一元的には確定できない、という考え方に従えば、行為は二度評価するが結果は二度評価できないという見解には疑問があるところです。どの犯罪が成立するのかという問題は、その構成要件がどこまでの所為を射程に入れているのかで判断すべきであり、「結果とされるものが重複するのならば複数の犯罪は成立しない」とは一概には言えないと思います。

*1:ここで、なぜ現実に人が死んでいるのに殺人未遂罪なのかと批判するのであれば、同時に、なぜ現実に人が死んでいるのに強姦致死罪でないのかに答えなければならないでしょう。強姦致死罪は殺人の故意を排除しますが、死亡結果は排除しません。

*2:もしそうでないのなら、実行行為が重複しないことになり、それは単に強姦罪殺人罪併合罪である