今日の軍法会議

ウィキペディアに「軍法会議」の項があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%B3%95%E4%BC%9A%E8%AD%B0
記述は詳細なのですが、気になった点をいくつか。

内地の軍法会議は昭和20年12月に廃止され,その記録はすべて地方裁判所に移管された。

軍令部などはたしかにその頃に廃止されましたが、軍法会議の廃止は昭和21年5月(勅令第278号)です。しかも廃止後も従前の行為については軍法会議は存続しました*1。このあたりの実情は、資料に乏しいのでこんど詳細に検討してみます。
終戦後も軍人が裁かれつづけたというのは事実なのですが、刑事に関して軍は資料の作成・公表について消極的であり、また終戦時に大半の資料が処分され、残った資料も連合軍に没収されているのです。科研費をいただけるのならば私は調べますけどね。
 

明治16年には陸軍治罪法・明治17年には海軍治罪法が制定され,大正10年に陸軍軍法会議法・海軍軍法会議法と改定された。

大正10年に軍法会議法と改定されたのは明治16年・17年の布告ではなく、その後に成立した陸軍治罪法(明治21年法律第2号)、海軍治罪法(明治22年法律第5号)です。これらは、法令名は明治16年・17年布告と同じですが、全条改正という形式を採っています*2(たとえば旧刑法と現行刑法との関係は、名称は同じですが別の法令です)。
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その後,明治5年は陸海軍に軍事裁判所が設置され,明治15年には軍法会議になった。

ここがよくわからないところです。ゆっくり仮説を立てて検討していきます。
<仮説1>.明治5年に、軍事裁判所が設置された。その軍事裁判所が明治15年に廃止され、同時に、軍法会議という別の訴訟組織が用意された。
ウィキペディアの文章から最も素直に読み取れる解釈です。
ところが、軍法会議明治15年よりも前の時点に、既に存在していました。この語が法令で初めて登場するのは明治5年3月の陸軍省達です。

現今軍法会議之方法御詮議中ニ付、追而確定候マデノ内、糾問司ニ於テ仮会議ヲ設ケ、

また、明治5年7月の陸軍省達にも

陸軍裁判所ニ於テ軍法会議致候節、

の文言があり、明治8年11月の陸軍職制及事務章程には

第四十六条 凡鎮台ニ在テハ罪犯アル毎ニ軍法会議ヲ起シ決判ス。

とあります。また明治6年11月海軍省達は「軍法会議定員」と題して、「軍法会議」における定員を規定しています。
 
この点につき、細川によると*3

軍法会議の制度は間もなく正式決定を見た。すなわち明治五年五月二三日陸軍省達の鎮台本分営罪犯処罰条例によると、【以下略】

とあるので、明治5年の段階ですでに「軍法会議」は存在していた、とされているようなのです。
 
<仮説2>.軍事裁判所と軍法会議は同一の内容のものであるが、呼称として、軍事裁判所とされていた呼び方が明治15年軍法会議となった。
明治5年4月に糺問司が廃止されて「陸軍裁判所」が設置されたのは*4確かですから、「軍法会議」に関する先述の記述をあわせると、この仮説に着きます。
富山は以下のように書いています*5

軍法会議は軍裁判所なり詳言すれば軍に設置せられたる刑事の特別裁判所なり

他の文献でも、軍法会議と軍事裁判所とを同一のものとする記述は、いくつかみられるところです。
しかし、明治15年に陸軍裁判所が廃止されたのは事実なのです(太政官布告第57号)。

陸軍裁判所被廃候条此旨相達候事

当然、軍法会議はこの時点では廃止されていません。ではこの布告では、何を廃止したのでしょうか。
 
<仮説3>.初期には、軍事裁判所と軍法会議という別個の組織が並立していた。それが明治15年に、軍法会議に一本化された。
もはやウィキペディアの記述からは離れた解釈です。
軍事裁判所と軍法会議とがそれほど明確に区別されていたかというと、そうでもありません。明確に立て分けられていたものとして、以下の記述があります*6(太字引用者)。

明治五年五月二三日陸軍省第一一〇鎮台本分営罪犯処罰条例中に

【中略】就テ其罪状ヲ弁審シ其犯罪営内諸規ニ係リ懲罰ニ処スヘキト軍律ニ係リ軍法会議ニ属スヘキトヲ分弁シ各其処置ニ従フヘシ【略】

と規定し、また、

【略】当分東京鎮台並ニ近衛隊ハ直ニ陸軍省ニ隷スルヲ以テ錮二十八日以上ノ罪犯アル毎ニ裁判所ニ附シ処置セシムヘシ

等の規定を設け、鎮台における軍法会議と陸軍裁判所の関係を明らかにした。

 
つまり、東京に置かれた糺問司が明治5年に「陸軍裁判所」になり、一方で地方本営・分営の糺問司出張所が「軍法会議」になりました。そして、明治15年には「陸軍裁判所」が廃止されて「軍法会議」に一本化された、というわけです。
しかしその後、陸軍裁判所といえば陸軍の裁判所、つまり陸軍軍法会議を指すようになり、両者の相違は意識されなくなった、ということです。ただ、明治15年の陸軍裁判所廃止に触れている教科書は多いのですが、この点を明確にしている記述はあまりありませんでした。
なお、海軍裁判所の廃止は明治17年太政官達第29号)です。

*1:たしかに、軍事機構が解体されれば実質的には軍法会議の実施は不可能です。これにつき、地方裁判所への移管の実際については重松一義「図説 日本の監獄史」(雄山閣、昭和60年)など参照。なお、同書301ページには「帝国海軍最後の軍法会議」の項がありますが、ここで、GHQの指令により軍刑法の効力を保つのは1945年10月20日まで、とされていますが、これは軍刑法自体の廃止を意図したものではなく、現にその後もいくつか軍刑法の存続を前提とした法令が公布されています。

*2:軍事法制史について説明された書籍のなかには、この点に関して明確ではない記述をしているものもあります。この点については後日書きます。

*3:細川亀市「日本近代法制史」(有斐閣昭和36年)130ページ

*4:海軍の軍事裁判については、しばらくの間陸軍裁判所に委託されていました。

*5:富山単治「軍法会議法論」(厳松堂、大正13年)1ページ、カタカナをひらがなに改め濁点をつけました。

*6:藤田嗣雄「明治軍制」(信山社、平成4年)292ページ