安田拓人「刑事責任能力の本質とその判断」(弘文堂)

今日からしばらく書いていきます。

39条は、一般的な責任阻却原理から導かれる範囲よりも広い責任阻却を認めるものか

これについて、安田(61ページ以下)は、反対説を以下のように紹介しています。

他方、刑法39条を、精神障害者について、責任主義から当然に導かれるものよりも広い免責の余地を認める、実定法によって特権化された責任阻却事由を規定するものだと捉える見解も、本法成立前から有力であった。

この説に対して安田は、平等の原則に反すると批判しています。

やはり、精神障害者精神障害のゆえにのみ正常者より有利に扱うことは平等原則に反しており、その不平等な取り扱いを正当化するものはないように思われる。

ジュリスト1230号でも同様に、これに対して「ノーマライゼーションの理念とは必ずしも調和しない」として批判しています。
 
いっぽう、この見解を主張している側*1は、まず41条を挙げて、そこにおいて刑事未成年の規定が、(厳密な責任能力を検討する前に)特別に広い免責を認め、刑罰よりも教育を与えることが刑事政策上妥当であるとしている点を指摘しています。
そして、違法性の意識(の可能性)や期待可能性による責任阻却が条文・判例上きわめて抑制的にしか認められていないという点を挙げ、39条が(41条と同様に)、もともと(他の責任阻却事由よりも)広く免責されていると主張して、39条の政策性を強調しているわけです。
 
そう考えると、なるほど、責任阻却の一般原則と39条との間の不公平性を否定するのであれば、同様に、責任阻却の一般原則と41条との間の不公平性をも否定するか、あるいは心神喪失心神耗弱の特殊性を主張する必要があるでしょう。ただそうなると、その特殊性の主張がまさに、ノーマライゼイションの理念との不調和を導く可能性があるわけで、「精神の障害ゆえの免責」が(単なる注意規定と解するのであればともかく)現に存在する以上は、多少はこの不調和と対峙する必要があるわけです。別々に扱うことを不公平とするというような(短絡的な)見解を採用しているわけではなく、まさに安田が主張する

しかしながら、責任能力論は、責任阻却・減少事由としての性格のみをもつ、違法性の錯誤論や期待可能性論とは異なり、触法精神障害者の取り扱いに関する法制度により、影響を受けるところがあるから、もっぱら責任論の観点から、責任阻却事由・責任減少事由としてのみ検討を行うのでは、必ずしも説得的な結論を導くことができないし、検討にあたって考慮されるべきさまざまな要因の相当部分を考慮外に置いてしまうことになりかねない。

(21ページ)に基づいているわけで、その見解に対して「平等原則に反する」と批判するのみというのは少々弱いかな、という気がします。
ちなみに個人的には、違法性の意識については故意(事実的故意)の時点で責任との関連が考慮されており、その点で「責任阻却が条文・判例上きわめて抑制的にしか認められていない」とは考えていないので、39条の政策性をそれほど強調する必要はないのではないかな、と考えていますが、ひょっとするとそれでも、違法性の原理だけでは正当防衛の要件の議論がなかなか膨らまないのと似ていて、責任の原理だけでは心神喪失・耗弱の要件の議論がなかなか膨らまないのかも知れません。ひょっとすると。
 
そもそも形式的判断を行えば実体から多少離れるのは当然であり、だから(いわゆる)生物学的要素を重視する立場を採ると、認識・制御能力という、責任非難の原理から直接的に導けそうな要素との関連性が比較的希薄になり、ゆえに「真正面から」法規定を非難原則から演繹させるよりは「政策的」「特別な免責」という方向に向かうのでしょう。その意味では、生物学的要素に対してそれほど積極的な価値づけをしない安田説(以後検討、たとえば71ページ以下参照)からは、町野説への上述のような批判は一貫しているといえます。
個人的には、このことは諸責任要素が共通してはらんでいる問題である、と考えます。

情動行為と事前回避義務

これについて、安田・54ページでは、

シュトラーテンヴェルトが述べるように、禁止の錯誤について事前の努力による回避可能性を考慮した故意犯処罰が責任原則違反ではないのであれば、責任無能力についても同様に考えることは理論的には十分に可能なのである。

として(とくに56ページ以下)、違法性の錯誤における責任説の考え方とパラレルに論じています。
ここで、事前調査の義務について、高山佳奈子が個別行為責任の観点から否定的に論じているのに対して、「責任判断が仮定的基盤に基づく仮定的判断であることへの洞察が欠けているように思われる」としています。
ただ、責任説を採用する高山が、責任判断の仮定性(責任は所与の実体として存在するわけではない)を失念しているはずがなく、むしろ、仮定的判断だからといって事前照会義務がどこまでも遡って許されるというわけではない、その歯止めを「個別行為責任」に置こう、と主張しているわけです。
いずれにせよ、シュトラーテンヴェルト(引用先、1989年*2499ページ)も安田(55ページ)も、当該犯行との関連でのみ事前回避が問題になる、という点ではかわりはなく、その点は高山と大きな差異はないわけで、高山の「洞察が欠けている」というわけではないように思えます。また、責任能力については一般的・抽象的な能力で足りるとするとしても、違法性の意識については、当該行為と結び付けられた構成要件関連的な意識を要求するのが通説的立場です。仮にそうならば、「事前の故意」がない以上はこれと関連付けられた違法性の意識もありえないという違法性の錯誤に固有の問題が存在するわけで、これが情動行為の問題の解決に資するかというのは、また検討が必要になるのかもしれません。
 
個人的には、「〜できる」と「〜すべき」との距離については、これも諸責任要素が共通してはらんでいる問題である、と考えます。

*1:たとえば辰井聡子「重要条文コンメンタール刑法4 責任能力法学教室2002年6月号20ページ以下

*2:石井・早稲田法学会誌44巻(1994年)では、1990年になっています。いや、むしろ注161が見当たりません。