事実的故意と違法性の意識

前回(id:kokekokko:20090407#p1)のつづき。

南論文(承前)

3.意味の認識をめぐる一考察(法学政治学論究48号)
・意味の認識: 判例は意味の認識を必要とせず、構成要件該当事実の認識があれば故意帰責が可能であるものと理解された。 
・香城説: 判例は、一貫して、自然的事実の認識のみでは足りず、社会的意味の認識を必要としている*1
・検討課題: 規範的構成要件要素と記述的構成要件要素とで区別せず、いずれにも意味の認識が必要であるとするか、または不要であるかのいずれかとすべきである。
  
3−1.判例を支持する見解
(1)

・意味の認識不要説: 故意の成立要件として、意味の認識を必要とせず、判例のように裸の事実の認識があれば十分である(亀山継夫)*2
・行政犯について、実体と名称の認識のほかに意味の認識まで要求することになると、結局違法の認識ないしは法規の認識を要求することとの区別がつけられなくなる。
・名称の認識: 麻薬、けしなどの名称の認識があれば、故意を認めうる。構成要件要素としての故意の機能がある特定の構成要件を他の違法類型から区別特定することにあることを考えれば、故意の内容として要求される事実の認識は、当該問題とされる構成要件を他のそれから区別し、特定するに足りるだけの事実の認識が必要とされ、かつそれで足りる。
・「覚せい剤原料」のような特殊な属性、特殊な社会的意味の認識を要求することは、同法による規制の存在の認識を要求するのとほとんど差がない。
違法性の意識: 意味の認識を不要とすることが時として「苛酷に過ぎる」場合に、例外的に故意責任を阻却する。
 
・南からの指摘: 理論としてみると、構成要件を特定するに足りるだけの事実の認識があれば故意を認めるという見解をとると、解決が困難な場合も生じ得る。
・批判1: 故意の成立にとって、名称の認識のみでは足りるとすると、名称の認識のみで行為者を処罰することになる。これは38条3項の趣旨に反する。行為の意味を認識していない行為者に対し刑罰を科したとしても、行為者はなぜ処罰されたのか理解できない。
・塩酸エフェドリン覚せい剤原料であると全く認識していない場合、「苛酷に過ぎる」として責任阻却されるであろう。しかしこの場合も、故意犯不成立により構成要件不該当であるとする方がより適切である。意味の認識を有していない場合は、行為規範が動揺させられることはないので、違法要素としての故意が阻却される。
・批判2: 意味の認識を有しているが名称の認識がない場合に、故意が否定されてしまう。構成要件が特定されない場合でも、処罰に値する意味の認識を伴った事例は少なくない。
・故意構成要件の機能: 亀山は、故意構成要件の機能を「ある特定の構成要件を他の違法類型から区別特定することにある」とする。
・批判3: 故意行為は、行為規範に反する行為でもある。行為規範と同じ内容を、行為者が頭に描いていた場合に、はじめて故意が認められるべきである。
 
(2)
・意味の認識必要説: 香城敏麿は、故意の成立には意味の認識が必要としている。しかし学説からは、意味の認識不要説として分類されてもいる*3
・香城説: 故意の成立には、構成要件に該当する自然的事実を認識しているだけでは足りず、それが構成要件に該当するとの判断を下しうるだけの社会的意味を認識していなければならない。
・意味の認識: 「その要件に当たることを識別しうる程度の意味の認識」あるいは「自己の行為が犯罪に当たることを知ってこれを避けうると認められる範囲の事実」
・南からの評価: 故意の成立の判断にあたり、行為者の主観的認識とは区別される、客観的認識の可能性が考慮されていると思われる。
・香城説での名称の認識: 自然的事実の認識から故意の存在を認定するには、その者が日ごろ覚せい剤を取り扱っていたことなどの特別の事情が必要であろう。
・対象薬物が、覚せい剤原料であることについてまで認識が必要であるとすれば、その法令名まで認識していた場合にも、それだけで故意を認め得ないことになり、結局は放棄の認識を必要とすることになる*4。名称(塩酸エフェドリン)の認識で、故意を認めることができる。
 
・南からの批判: 意味の認識は、故意を統一的に理解するために必要である。しかし香城説は、名称の認識があれば故意を認めるのに十分である、という。これは、意味の認識を、純粋に主観的な認識のレベルではなく、規範的に評価された可能性の観点から捉えられていることに理由があると思われる。
・名称の認識: 行為者が実際に意味の認識を有していたのかどうかを、名称の認識にとどまらず、行為者の様々な認識から判断することによって、故意を認定しなければならない。香城説のいう意味の認識は、客観的に規範化された意味の認識といえる。香城説は意味の認識を不要としているという評価も、不当とはいえない。
 
3−2.判例
(1)最判昭和23年3月20日(メタノールの譲渡*5
メタノールを、メチルアルコールとは異なる無害な飲料であると思って譲渡した行為者につき、メタノールという名称の認識があれば故意が成立する、とした。
・香城はこれを「飲料用に流通している有毒な毒物である」という認識があるとする*6が、最高裁は、名称の認識があれば事実の認識として十分であると判示するのみである。
 
(2)最判昭和23年7月14日(メタノール
メチルアルコールという認識はあったが、メタノールという認識はなかった行為者につき、単なる法律の不知にすぎない、とした。
・「飲んではいけない」ということを知っていたので、意味の認識はあったといえる。
・意味の認識: アルコール性の有害な液体であるという程度の内容。
 
(3)最判昭和23年12月7日(メタノール
・メチルが有害であり、それがアルコールに入っていたという認識があった行為者につき、故意を認めた。
 
(4)最判昭和24年2月22日(メタノール
(5)最判昭和24年4月23日(メタノール
・名称の認識はなかったが、飲用に供すると身体に有害であるかもしれないと思っていた行為者につき、「有害と思っただけでは本令違反の犯罪に対する未必の故意ありとはいえない」として、差戻した。
・名称を認識してはいなかったが「アルコール性の有害な液体」という認識が認められるので、故意は成立するのではないか。
 
(6)東京高判昭和49年7月9日(覚せい剤
・塩酸エフェドリンを譲り受けたが、「塩酸エフェドリンぜんそくに効くこと」と同時に「やばいもの」であるということを察知していたが「覚せい剤原料」であるとは認識していなかった行為者につき、名称の認識にとどまる場合でも、少なくとも未必的に違法性の意識がある以上、事実の認識として欠けるところはなく、法令の不知に過ぎない、とした。
・故意を認めた判断は妥当だが、その論拠には問題があった。名称の認識にとどまる場合には、故意と認めることができない。
 
(7)最決平成2年2月9日(覚せい剤
・「違法な薬物」との認識だけでは故意としては不十分であるが、覚せい剤を含む数種の薬物を認識予見しており、いわゆる概括的故意が成立する、とした原審に対して、最高裁は「覚せい剤を含む違身体に有害で違法な薬物類」であるとの認識があったので、「覚せい剤かもしれない」との認識はあった、として原審を支持した。
・この判例は意味の認識を重視したものであるといえるのではないか。香城は(4)(5)の判決と(7)の一貫性を主張するが、しかし3つの判例はすべて意味の認識が具わっていたと解するべきであり、判例は実質的な判断へ修正したと理解するのが妥当である。
・この決定は、概括的故意の問題として評価されている(井田良*7)が、意味の認識の問題でもあり、両方によって故意が認められた判例と解することが妥当である。
・「覚せい剤である」認識: 不要である。その理由は、(1)慎重な行為者ほど故意が認められやすくなってしまうから、(2)名称を知らなかった場合でも意味の認識があれば故意は認められる。
 
・南論文の帰結: 意味の認識が必要とされる理由は、(1)故意の統一的理解のため、(2)意味の認識の内容こそが、刑法の禁止しようとしている内容だから。
・構成要件は裁判規範であり、それを国民にも理解可能な形にしたものが行為規範であり、それこそが意味の認識である。

*1:香城敏麿「公衆浴場法八条一号の無許可営業罪における無許可営業の故意が認められないとされた事例」『最高裁判所判例解説刑事篇平成元年度』(1991)284ページ以下

*2:亀山継夫「覚せい剤原料譲渡罪の成立に必要とされる故意の内容(下)」研修324号(1975)56ページ

*3:高山・前掲『故意と違法性の意識』168ページ

*4:香城敏麿「覚せい剤取締法」『注釈特別刑法第5−II巻第二版』(1992)26ページ

*5:有毒飲食物等取締令1条(昭和21年改正の以前)

*6:メタノール」という名称は、一般的に社会的意味の認識を伴う、とする。

*7:井田良「覚せい剤輸入罪および所持罪における覚せい剤であることの認識の程度」判例評論384号(1991)214ページ