事実的故意と違法性の意識

前回(id:kokekokko:20090414#p1)のつづき。

南論文(承前)

4.意味の認識の限界と禁止の認識(法学政治学論究59号)
・ドイツの状況: ドイツでは、刑法17条により責任説が法律上の根拠を持つ。ところが、それでも故意説を採る(採りいれる)見解がある。
・これらの見解は行政犯・法定犯を念頭に置いていると思われる。
・意味の認識: 意味の認識論には限界がある。
 
4−1.ドイツ刑法17条と故意説・責任説
・ドイツの判例: 刑罰法規・非刑罰法規区別説(刑罰法規の錯誤は故意成否に影響しない)から責任説へ展開。
・ドイツ刑法第17条: 「行為の遂行に当たり、不法をなす認識を欠く場合において、犯人がこの錯誤を回避しえなかったときは責任なく行為したものである。犯人が錯誤を回避しえたときは、その刑は、第四九条第一項に従って軽減することができる。」*1とする。
・ドイツ刑法16条は構成要件の錯誤を、17条は禁止の錯誤を規定したものである、と解されている。
 
・シュミットホイザー: 故意説を主張する*2
・責任説への批判: 責任主義が一般的にのみ考慮され、行為者に少なくとも不法の認識能力があれば、責任にとって十分な考慮がなされたと評価する、という点が、責任説は責任主義と相いれない。
・16条: 16条は、事実の認識と不法の認識とを規定したものである。不法を認識していなかった場合は、故意に実行したことにはならない。
・17条: 17条は、もっぱら過失行為に関する規定。1文は、責任阻却に関する過失の限界を示したものであり、自明のことを示す。2文は、回避可能な禁止の錯誤に陥って実行された過失行為について、刑の減軽可能性を規定する。
・シュミットホイザーの考え: 故意と過失との決定的な差異は、異なった法律効果の規定から要求されているという点に見られなければならない。(故意と過失との)重大な差異は、重大な意識の対象によって決定されなければならない。
・ロクシンの批判: 立法者は、17条を禁止の錯誤の規定である。「異なって解釈すること自体が、解釈者に禁じられている」。また、違法性の過失である禁止の錯誤が、通常の過失と比べ、なぜ広く減軽されるべきなのか、という説明が困難。
 
・日本刑法38条3項: ドイツ刑法17条と比べて、厳格故意説を受け入れる余地*3はある。条文解釈上の問題は、厳格故意説への決定的な障害とはならない。
・問題点: むしろ問題なのは、「厳格故意説の方が責任説に比べて、より責任主義に合致したものである」という点。シュミットホイザーが厳格故意説を主張した意図は、今日の日本の厳格故意説の論者の意図と同一の方向性を示している。
・責任: 故意説では、行為者の心理状態。責任説では、行為者の答責性。
 
・第1の問題: 行為者の価値判断に重きを置く故意説が、責任説の考える答責原理は責任にとって相応しい内容を有するものではないと批判する。しかし、個人の価値判断のみで結論が決せられるという考え方は妥当か。
・南からの批判: 違法を知らずに行為した行為者に対して、その責任非難が消滅するという結論は、直ちには導かれない。責任非難とは規範的評価であり、行為者が違法性を意識することそのものが非難の対象とならなければならないという必然性はない。
・刑法規範の効果を広範囲にわたって、その名宛人の任意の解釈に委ねることは、客観的秩序としての法の機能とも相容れない。
・ロクシンの批判: 法を認識することについての努力を麻痺させ、誰も認識しようとしない規範は、事実上、無効となってしまう。
・法を知る義務: これらは、しかし、法を知ることを義務づけていることにはならない。違法性の意識不要説からは、法を知る義務が国民に課せられることになる。しかし、責任説においては、法律の存在を行為者を知らなかったとしても、無条件に非難されるわけではない。
 
・共同体の視点: ただ単に、禁止されていると知っていることのみを行為しない、というだけでは足りない。自己の行為が法に反しないように常に意識していかなければならない。国民には、遵法的に行動するよう注意すべき義務が存在する。
・ヴェルツェルの指摘: 人は、自己の決定の正当性について、自己の能力の範囲内で責任を負うことになる*4
・故意と過失: 責任判断以前に、事実の認識において、故意と過失は異なっている。過失行為では、行為者の表象内容自体は、法律では何ら問題のない行為であり、むしろ有益な行為であることもある(自動車の運転など)。
 
・第2の問題: 「違法性の意識の程度」の理解によっては、故意説の結論は、実際には違法性の意識の可能性説と変わらないものになるのではないか。
違法性の意識: シュミットホイザーは、不法の認識を言語行為的に(sprachgedanklich)ではなく事物思考的に(sachgedanklich)もつことで足りるとする*5。長井長信も、「意識作用の中には、決して意識の中心で対象として明確に意識されてはいないが、それと同時に随伴する一定の『現実的な』意識内容が存在する」とする*6
・事物思考: 「最初に言語を通して体験された物事を言語と離れた思考領域へと引き受けた、いわば具象的な想起に基づいた物事との直接的体験の中で生ずる」。
・故意と思考: たしかに、故意の成立には、言語思考は必要ではない。しかし、故意を認めるには、行為者が行為時に実体を思い浮かべる必要がある。
・激情犯と事物的思考: 激情犯や瞬間的行為については、「ナイフで切りつける」という程度の事物思考の認識は存在するが、違法性の意識の事物的思考は存在しない。
・故意: 故意とは、実際の・現在の・現実の認識が必要であり、非現実的な・現実化可能な知は、故意というに相応しくない。
違法性の意識: 瞬間的行為において、違法性の意識を認めるとするならば、もはやこれは「意識」ではなく、その「可能性」にすぎない。
・南からの批判: 事物思考的な同時意識は、人間の意識作用の一般傾向を示す情況証拠である*7。行為時に行為者が思い浮かべたこと以上のものを故意の対象としてとらえようとするならば、故意とは、際限なく広がりその内容が不適切なものとなる。
違法性の意識の内容: 内容として「前法的規範違反の認識」という程度まで緩和された違法性の意識で足りるといういうのであれば、もはや不要説と変わらない。道徳的非難を基礎づけることは可能であるが、法的非難・可罰的非難の根拠にはならない。
 
4−2.禁止の認識
・プッペ: 刑罰法規の錯誤と非刑罰法規の錯誤とに区別する理論に回帰する。
・故意説の部分的な適用: 白地法規の場合には、故意の認識内容に法的義務の認識を要求すべきである。
・白地法規: 完全に固有の構成要件を持たない形式的な意味での白地法規のみならず、他で決せられる義務を参照するよう指示した全ての刑罰法規。
・プッペの主張: 規範を照会することを怠った白地不法行為者に非難し得るような法の無関心に対する非難は、故意非難よりも過失非難に近い。白地法規から決定規範を導き出すことはトートロジーを生み出す*8
・南の指摘: プッペの見解は、法的義務の存在の認識を、違法性の意識ではなく事実の認識の問題としてとらえている。その限りで、日本の通説も同様である。
 
・狩猟法における狩猟期間の錯誤: (1)禁猟期に狩猟をすることの禁止を知らない場合、(2)禁漁期の日付あるいは時間制限について思い違いをしていた場合、の2つを検討する。
・ロクシンの見解: (1)を禁止の錯誤、(2)を構成要件の錯誤とする。
・行為事情に関する錯誤: ロクシンによれば、法規の細部(しかも白地法規*9)の内容に関して誤った場合には、故意が欠けるということになる。補充する規範の存在についての錯誤は禁止の錯誤であるが、補充する規範の行為事情に関する錯誤は故意を阻却する。
・法律の錯誤: さらに、ロクシンによれば、法律の錯誤が常に禁止の錯誤のみとなり故意を阻却しえない、ということは妥当ではない。
・社会的事情の意味: ロクシンによれば、行為事情の社会的意味が行為事情を特徴づける法的概念なしに理解できる場合には、誤った法的解釈は故意を阻却しない。誤った法的解釈により。行為の社会的意味を錯誤したことによって事実認識が欠けてしまった場合には、そのような錯誤は、該当する規範的行為事情に関して故意を阻却する。
・南の見解: (1)(2)ともに禁止の錯誤である。
・ロクシン説への批判: 禁止期間の日時を誤ることが行為事情にあたるということについて、どのような社会的意味が認識できなかったのか不明確である。「社会にとって認識しやすい法規に関する錯誤は故意を阻却せず、認識することが困難な法規に関する錯誤は故意を阻却する」という論理は、はたして可能か。
・プッペ説への批判: 白地刑罰法規における違法性の錯誤について、故意犯よりも過失犯に近いとしても、犯罪事実を認識している以上、故意は存在するはずである。行為者の頭の中で思い描いていた事実は、構成要件に規定されている事実そのものであって、過失は過失でも、法律の過失である。
・結論: 故意は、国民にとってその法規の存在に関する認識が困難であるか否かによって左右されるものではなく、全ての法規にとって統一的に理解されるべきである。
・国民にとって認識困難な法律に関する錯誤: 違法性の意識の可能性によって、故意処罰が否定される。
 
4−3.意味の認識の限界
・意味の認識: 通説は、故意の要件として、意味の認識が必要であるとする。しかし、意味の認識の内容は、しばしば不明確になる。
・斎野からの指摘: 故意つまり事実の認識と、違法性の意識との間には、事実認識を評価認識という質的な違いがあるのではなく、等しく評価の認識でありながら、その程度の差が存在する相対的な違いがあるにすぎない*10
 
鳥獣保護法・同法施行規則における狩猟期間: 故意の要件に必要な認識には、狩猟禁止期間に狩猟をする認識(禁止の認識)が必要なのか、当該禁猟日に狩猟をする認識で足りるのか(事実の認識)、あるいは何らかの意味の認識が必要なのか。
・立法者が意図した内容: (1)意味の認識の内容を、立法者が意図したところの内容である、とすることができる。
鳥獣保護法での立法者の意図: 法第1条の目的からは、動物を保護し、環境を保全することに反しているという認識、あるいは動物の繁殖期に狩猟をしているという認識となる。
・南からの批判: これらの認識は、狩猟禁止期間であるという認識よりも、認識することが困難である。このような認識がなくても故意を認める余地はあり、意味の認識としては相応しくない。
・社会的な意味の認識: (2)意味の認識の内容を、社会的な意味の認識としてとらえることができる。
・福田平の見解: 故意の成立に必要な事実の認識の程度は、規範の問題が具体的にあたえられる程度のものである。故意に必要な意味の認識としては、法的評価の選定となる事態(Sachverhalt)の意味、性質を知っていれば十分である*11
・狩猟期間: この見解からは、狩猟期間に関する意味の認識の内容は、「狩猟禁止期間である」というものになる。禁漁期の認識を具体的に与えるものは、当該日付に狩猟をするという認識ではなく、狩猟禁止期間に狩猟をするという認識のみだからである。
・南からの批判: このような場合にのみ、禁止の認識が故意の要件に要求される理由は、故意非難を避けたいがための非論理的なものである。狩猟禁止期間が違法性の意識であるとして、これを意味の認識の内容であるとするならば、この内容は一気に広範囲なものになる。
・結論: 狩猟期間の例からは、故意の要件として、意味の認識が存在しない場合があることが示されている。
 
道路交通法における禁止区域に関する判例
(1)東京高判昭和30年4月18日高刑集8巻3号325ページ
・被告人には、「禁止区域内で追い越している」という認識がなかった。
・判決は、標識等の不適当により禁止区間の認識を与える手段に手落ちがあったことを認めたうえで、単に「他の自動車を追い越すという認識」だけでは足りず、追越禁止区域内(公安委員会の定める場所)で他の自動車を追い越すという認識を意味するものと解するのが相当、とした。
 
(2)大阪高判昭和28年4月28日判特28号21ページ
・被告人には、道路横断禁止場所であるのを知りながら横断しようとする意図を有していなかった。
・判決は、「標識の存在を認識しなかった即ち横断禁止の事実を知らなかったがためにその挙に出たものと認めるのを相当とする」として、故意を阻却した。
・南からの指摘: 判例は、違法性の意識不要説に立っているので、違法性の意識を欠いたことについて無理がない場合には、事実の認識が欠けたものとして、故意を阻却する傾向がみられる。(1)(2)ともに、禁止の認識が欠けたことを理由に故意を阻却したとも解釈し得る。
 
(3)東京高判昭和31年6月30日裁特3巻15号727ページ
・転回禁止違反につき、判決は、「見やすいところに所定の標識が設置されているのであり、被告人・同乗者ともに気付かなかったというのは諒解しがたい」として、禁止区域であることの(未必的)故意が行為者に認められることから故意の成立を認めた。
・南からの指摘: 禁止区域の認識を故意の要件に要求しているのは、標識等の認識がなくても故意を認めるとした場合、処罰範囲が広範囲に及ぶことを危惧しているからであると思われる。しかし、未必の故意を広く認めすぎているのではないか。
 
(4)大阪高判昭和43年1月30日下刑集10巻1号50ページ
・一時停止違反につき、判決は、道路標識によって一時停止を命ぜられた場所であることは構成要件の内容をなす事実であり、故意犯を認めるには「少なくとも道路標識の存在を認識して一時停止すべく指定された場所であることを知っていなければならない」として、一時停止場所の認識を要求した。

・禁止区域に関する学説: 禁止区域であることの認識を行為者に要求するものが通説である(福田、斎野、重井輝忠など)。実務家からも、禁止区域の認識が必要であると指摘されている(古田祐紀、岩橋義明など)。
・法定禁止区域の場合: 標識等により指定の場合と異なり、通説は、禁止区域の認識を行為者に要求してはいない。たとえば、駐車禁止区域では、「消火栓から5メートル以内」であることに関して、5メートルという数字の認識は不要であるが、消火栓からどの程度離れているかについての像が見えていればよいとする(高山佳奈子*12)。
判例・学説の共通理解: 標識等による禁止区域の指定では、禁止区域であることの認識(違法性の意識)が必要であるが、その場所が法規制の対象をなす固有の特徴を有している場合には、その場所が備えている実態を認識すれば足り、禁止区域の認識は必要ではない。
・南からの疑問: 標識等の認識と、法定禁止区域の認識とでは、大差はないのではないか。
・標識の認識: 標識等による禁止区域は、公安委員会の定めた白地刑罰法規にあたると考えれば、標識等による禁止区域を特別扱いする理由はない。
・両者の差異: 両者の差は、禁止区域であることの認識可能性が容易であったか否かの問題に過ぎない。故意の問題ではなくむしろ違法性の意識の問題に過ぎない。
・南説への考えられる批判: 法律上の禁止区域は、禁止行為に不法の実体が存在する。しかし、道路標識等による禁止区域には、それがない。
・反論: 道路標識等による規制がなされている区間であっても、規制すべき理由があるはずであり、まったくの無色透明な場所を規制しているわけではない。道路標識等による禁止区域であったとしても、その場所自体の認識があれば、標識等の認識が欠けていたということを理由に故意を否定すべきではない。
・狩猟禁止区域の認識: 判例は、銃猟禁止区域等につき、故意の成立には禁止区域の認識が必要であるとする。処罰の必要性から、「狩猟法等は過失犯をも処罰するものである」と理解する。
・南からの批判: 判例における禁止区域は、道路交通法での標識等による禁止区域と同様に考えることができる。禁止区域の認識は故意の成立にとって不要。また、過失犯処罰規定がないにもかかわらず過失犯処罰を認めることには、問題がある。
 
・意味の認識: 禁止区域の認識を故意の要件として要求した場合の、意味の認識の内容につき、標識等による禁止区域の場合には、通説・判例は法的禁止を含めた事実の認識が意味の認識の内容になっているとすると思われる。
・南の指摘: 標識等による禁止区域の場合、その意味の認識は、行為自体から直接的に導かれるものではなく、行為者の事実認識によって意味の認識が導かれることがない。
・固有の特徴を有する場所における意味の認識と、標識等により禁止区間とされる場所における意味の認識とでは、それぞれ性質が異なる。
・標識のある場所での追い越しの場合: 行為自体から意味の認識が導かれるわけではなく、標識を見ることにより自己の行為がどのように評価されるかを知ってはじめて意味の認識が得られることになる。禁止区域の認識を意味の認識として要求することは、法的評価を加味するものであり、意味の認識にとって相応しくはない。
・南説への考えられる批判: 標識の認識を事実の認識ととらえて、標識の意味が行為者には分からなくとも、少なくとも標識の認識が故意の成立には必要である、とすることができる。
・反論: それでも、標識等の認識は故意の要件ではない。
・根拠1: 狩猟禁止区域では、いたるところに標識があるわけではない。標識の認識を要求することはできない。
・根拠2: 道路標識の存在があるから禁止区域になるわけではなく、公安委員会が禁止区域として指定することによって法的効果が生じるのであり、道路標識はその法的効果を示すものにすぎない。消火栓の場合は、消火栓があるから駐車が禁止されるので、消火栓の認識が必要である。しかし道路標識の場合は、法律上の禁止区間であるという法的評価を知らせるものである。
・意味の認識: そもそも意味の認識とは、それぞれの事実が有する固有の性質をあらわしたものである。
(1)殺人罪の場合: 被害者を死に至らせる、という程度の認識。事実の認識がそのまま意味の認識になっている。
(2)固有の特徴を表す禁止区域の場合: 当該場所の認識(トンネルなど)があれば、その事実認識が意味の認識になる。
(3)法的概念・専門知識: 事実の認識がそのまま意味の認識にならず、当該事実が示す性質が知られていなければならない。たとえば、「覚せい剤原料である」という認識、「ビールのコースターに店員が書いた線を消すことによりその意味(何杯飲んだか)の内容を変える」という認識があれば、意味の認識が認められる。・事実の性質: (3)でいう事実の性質とは、評価ではなくそこに本来的に存在する固有のものである。
・意味の認識と違法性の意識との違い: 固有の性質か、後に与えられた法的評価であるかの相違。
・道路標識等における禁止の認識: その場所の固有の性質ではなく、後に加えられた法的評価にすぎない。
・意味の認識の機能: 条文上の概念と日常的概念との間にギャップがあるとき、条文上の概念を日常的概念へと翻訳することが必要である。この場合に機能するのが、意味の認識である。
・意味の認識の限界: 禁止区域の認識は、翻訳には相応しくない。翻訳可能か否かで、ある事実の本来的な性質が導かれているか否かということになる。

*1:宮澤浩一(訳)「ドイツ刑法典」法務資料439号(1982)。南の本論文では、ドイツ刑法典の訳はこれによる。

*2:Eberhard Schmidhaeuser, Der Verbotsirrtum und das Strafgesetz(§16 I Satz 1 und §17 StGB), JZ 1979, S. 364.

*3:たとえば、日高義博『刑法における錯誤論の新展開』(1991)169ページ

*4:Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl. 1969, S 162.

*5:Schmidhaeuser, a.a.O., S. 367.

*6:長井長信「違法性の錯誤と故意概念――故意説の立場から――」現代刑事法6号(1999)54ページ

*7:この点は、南がいう通り、長井自身も指摘している。

*8:Ingeborg Puppe, Tatirrtum, Rechtsirrtum, Subsumtionsirrtum, GA 1990, S. 162.

*9:連邦狩猟法第38条1項は、「狩猟期に関する規定に違反する」者が処罰される。狩猟期間の日時は、白地刑罰法規となる、とする。南・本論文322ページ注47

*10:斎野彦弥「事実の錯誤と違法性の錯誤の限界」刑法の争点第3版(2000)72ページ

*11:福田平「行政犯における事実の錯誤と法律の錯誤との限界」判例タイムズ1004号(1999)10ページ

*12:高山佳奈子『故意と違法性の意識』(1999)232ページ