事実的故意と違法性の意識

前回(id:kokekokko:20090421#p1)のつづき。

南論文(承前)

5.責任説の再構成(桃山法学7号)
・責任説のうち、事実の認識を違法性の意識と関連づけて理解する見解に対して、批判的に検討する。
・故意の要素から違法性の意識に関する要素を徹底して排除し、責任説を再構成する。
・故意には提訴機能が必要かどうか、責任から故意が排除されることは責任領域を空虚にするかどうかを検討する。
・意味の認識の内容を実質的に検討する見解に対して、検討する。
 
5−1.故意の提訴機能
・故意を違法性の意識と関連づける責任説: 構成要件該当事実の認識(意味の認識)を、「その事実を認識したならば違法性の意識を喚起しうるような事実の認識」と理解する見解。故意の内容として、反対動機形成可能性が必要である、とする。たとえば、西原春夫、大谷實、洲見光男、松原久利。
・西原説: 違法性の意識への直接的な期待が可能になるような犯罪事実の認識を完成させるべきだとの期待しかできない場合にはじめて、事実の錯誤として故意が阻却される*1
・大谷説: その事実から違法性の意識が喚起され反対動機の形成が可能な事実について錯誤がある場合が事実の錯誤と解すべき*2
・洲見説: 当該構成要件の違法性を喚起しうる事実の認識がある場合に、故意が認められる*3
・松原説: 犯罪事実の認識にいう事実は、通常その認識から直接違法性の意識が喚起され、反対動機を形成し、行為を思いとどまることが期待できるような『事実』を意味する*4
 
・南からの批判: 故意の提訴機能を認める見解は、たしかに、故意犯として処罰するに相応な認識を有する者にのみ、重い違法評価である故意が与えられ、理にかなっているということができる。しかし、責任説では、独立した責任要素である「違法性の意識の可能性」で違法性を認識しえたかどうかがチェックされるわけであり、なぜ違法性の意識について二度チェックする必要かあるのかという疑問が生じる。
・松原説: 犯罪事実の認識があれば通常直接的に違法性の意識の可能性が備わり、原則として非難が可能である。例外的に、違法性の意識の可能性がないために非難できない場合があり、それが消極的な責任要素である違法性の意識の可能性である。
・南による批判1: 独立した責任要素として違法性の意識の可能性を認めるならば、そこで判断すれば足りる。「行為者に具体的な」違法性の意識の可能性を判断すれば、「通常違法性の意識を可能とする」事実的故意は不要となる。
・南による批判2: 違法性の意識と故意を切り離すことにこそ責任説の意義があったのではなかろうか。両者はその把握の仕方がことなるのであり、違法性の意識を、心理的活動形式としての故意の構成要素と解することは妥当ではない。責任説は、故意と違法性の意識との間の存在論的な差異を前提としている。故意の提訴機能を要求する見解は、故意の心理的側面を軽視し、規範的考慮を介在させるという点で妥当とは思われない。
・故意の提訴機能への批判: 提訴機能を持つ認識を故意とする見解は、故意と違法性の意識は同質の責任要素だとする前提に立っている。故意は、規範による評価を捨象した、それ以前に存在する犯罪の実質の認識でなければならない(町野朔*5)。
・南による批判3: 故意の提訴機能を要求することにより、故意(意味の認識)の内容が不明確になっている。規範的考慮の混入によって、意味の認識の内容が、構成要件から導かれる事実を離れた、評価的な事実の認識になるように思われる。
・南による批判4: 故意の提訴機能を必要としない見解においても、現実的には不都合は生じない。故意が認められるならば原則非難可能といえるのであり、違法性の意識の可能性における判断は例外的なものであるとすることは可能である。あえて提訴機能を要求する必要はない。
・帰結: 処罰範囲を拡大させることはない。反対動機形成可能性がない場合でも故意は認められるが、結局は責任が否定される。提訴機能を要求しない見解の意図するところは、故意と違法性の意識の可能性のそれぞれの役割を明確化することにある。
 
5−2.責任からの故意の放逐
・責任説に対する批判: 故意と違法性の意識の可能性を分離することから、故意を責任の領域から放逐することになり、責任が空虚となる(団藤重光*6)。
・松原説: たしかに、犯罪事実の認識を責任の問題としない責任説には疑問がある。
・南からの指摘: 責任要素として、違法性の意識の可能性が存在し続けることから、なにも責任は空虚になっていない。
・批判への反論: 責任説と制限故意説との違いは、責任内部における位置づけのみである。よって、「責任説は責任を空虚にさせる」というのは正しくは「故意を空虚にさせる」である。しかし、違法性の意識の可能性は「可能性」という概念であるから、それを故意の要素に含ませることは矛盾であり、また心理的活動と規範的評価を混在させる点で、制限故意説は妥当ではない。
・考えられる再批判: 故意を構成要件要素・違法要素とする責任説に対しては、故意は責任領域においては失われているので、なお、「責任説は責任を空虚にさせる」との批判は可能である。
・再批判への反論: 責任説全体への批判とはならない。故意を責任要素でもあると考えれば、故意は責任領域においては失われているとは言えない。事実的故意が責任要素であるかは、保留する。
・南からの指摘: 責任が空虚になるという批判を受け入れるならば、故意を反対動機形成可能性と関係づけて考慮しなくとも、構成要件該当事実の認識も責任要素と解すれば十分であり、ただちに故意の提訴機能を要求する必要はない。

(この章つづく)

*1:西原春夫『刑法総論・改訂準備版(下巻)』(1993)471ページ

*2:大谷實『新版刑法講義総論・追補版』(2004)371ページ

*3:洲見光男「『あてはめ』の錯誤と故意―行政犯における事実認識を含めて―」法研論集47号(1988)121ページ

*4:松原久利『違法性の意識の可能性』(1992)25ページ以下

*5:町野朔「意味の認識について(上)」警察研究61巻11号(1990)8ページ以下

*6:団藤重光『刑法綱要総論第三版』(1990)319ページ