事実的故意と違法性の意識

前回(id:kokekokko:20090505#p1)のつづき。

南論文(承前)

6.違法性の意識
・厳格故意説からの責任説に対する批判: 責任説は、刑事政策上の問題を回避するために主張されるのであり、理論的には厳格故意説の方が正当である。
・反論: 責任説には理論的根拠が存在する。むしろ、厳格故意説の理論的根拠こそ、疑われるべきである。
 
6−1.厳格故意説の理論的根拠
(1)心理的責任の重視
・厳格故意説: 行為者の認識によって責任が左右されることから、心理的責任を重視した見解であるといえる。
・責任説: 違法性の意識が欠けたとしても直ちに責任が阻却されるわけではないことから、規範的責任を重視した見解であると評価できる。
・南による検討: 非難の捉え方が、故意犯においては心理的責任、過失犯においては規範的責任となる。なぜ、過失犯のみが規範的責任となるのであろうか。厳格故意説が規範的責任論に徹しきれていないことを示すものである。
・規範的責任論: 規範的責任論からは、故意犯の成立に違法性の意識を要求することは必然とはならないであろう。
 
(2)確信犯、常習犯、激情犯
・厳格故意説: 違法性の意識を犯罪成立に要求するため、困難が生じるのではないか。
・確信犯: 反対動機を形成するどころか、敢えて刑罰法規に反する行為に出ているということがいえる。確信犯人が規範に直面し、それを乗り越えたという側面をうかがうことはできない。
・常習犯: 常習犯人が規範意識を働かせ、通常の犯罪者と同様にそれを乗りこえて行為に出たとはいえない。「規範意識の抵抗をおしきって犯行に及ぶ」という「自由意思の行動モデル」は、必ずしも現実の犯行の心理ではない。
・厳格故意説からの方法(1): 違法性の意識とはただ単に違法を知ることである、と理解する方法(浅田和茂、斉藤信治、日高義博、松宮孝明)。
・南からの批判: 非難可能性の問題ではなく、国家の権威すなわち法律を無視したかどうかのみの問題であって、「国家の禁止・命令に違反していることを犯罪性の実質とする」権威主義的なものとなる。
・厳格故意説からの方法(2): 反対動機の形成ではなく、規範意識の抵抗を押し切る「可能性」、つまり反対動機形成「可能性」を問題とする方法(内田文昭)。
・南からの批判: 反対動機の形成可能性で足りるならば、故意の成立に違法性の意識を要求する必然性はない。反対動機形成可能性と違法性の意識は、直接的には結びつかないように思われる。
 
(3)事物思考と言語思考
・激情犯: 興奮状態に陥った行為時には、行為者に「違法だというはっきりした意識がない」のではないか。
・厳格故意説から: 違法性の意識は言語思考的である必要はなく、事物思考的認識で足りる。
・事物思考: 「最初に言語を通して体験された物事を言語と離れた思考領域へと引き入れた、いわば具象的な想起に基づいた物事との直接的体験の中で生ずる」ものであり、言語思考に比べ瞬間的であり、驚くほど広範である。
・南からの指摘: 確かに、故意の成立に必要な事実の認識を想定した場合、この事物思考自体は否定することはできない。しかし、行為の際に行為者は事物思考的に認識されなければならない。事後的に「違法であったな」という程度の認識では、違法性の意識の可能性であると評価できる。
・激情犯について: 事物思考的な違法性の意識すらないということができる。
 
(4)「違法性」の意味
・法定犯・行政犯: 厳格故意説では、行為者の処罰が困難になるのではないか。
・違法性の内容の緩和: 厳格故意説の中には、違法性の意識の内容を緩和し、(1)前法的規範違反の認識で足りるという見解や、(2)法定犯と自然犯とで区別する見解が見受けられる。
・主張: 社会倫理規範違反の意識が法でないということを理由に直ちに排斥すべきではない。違法性の意識は他行為可能性の保障にあるならば、規範意識の照らし当該行為を選択するだけの判断根拠が与えられていれば足りる。
・南からの批判: 刑事責任を基礎づけるのは、刑法規範の意識でしかありえない。倫理的側面に関する動機づけにおいて自由は保障されているが、そこでの他行為可能性は、あくまで道徳に反することを回避するための動機に過ぎず、刑法的非難に関する動機づけはなされていない。
・行為が刑罰によって威嚇されているか、それとも損害賠償義務を負担させるにすぎないかは、著しい相違である。倫理責任、民事責任と刑事責任は峻別すべきであり、「違法性」の意味の緩和はなされるべきではない。
 
6−2.責任説の正当性
(1)答責性としての非難
・厳格故意説からの主張: 厳格故意説は、より責任主義に合致したものである。
・南からの指摘: 両者の責任のとらえ方に注意しなければならない。
・厳格故意説での責任: 行為者の心理状態を対象としたものということになる。個人の価値判断のみによって責任が決せられる。
・責任説での故意: 行為者の答責性である。
・南からの批判: 厳格故意説からは、違法を知って行為に出た者、反対動機を形成しそれを乗り越えて行為した者に対しては、重い非難が可能である、といわれる。それは疑い得ない。しかし、その逆として、違法を知らずに行為した者に対しては非難できない、と直ちにはいえないはずである。
・類型: 違法性の意識を欠く理由につき、(1)熟慮の上に違法性の意識を欠き行為に出た類型、(2)無思慮に、法に無関心のうえで違法性の意識を欠き行為に出たという類型まで、幅広いと思われる。行為者の心理状態を責任非難に直結させる厳格故意説は、これらの類型を一律に判断する点に問題がある。
・故意説が刑法規範の効果を広範囲にわたって、その名宛人の任意の解釈にゆだねることは、客観的秩序としての法の機能とも相容れない。責任説の考える責任非難とは、規範的非難である。
 
(2)答責性の妥当性
・事実の認識: 事実の認識が故意の成立に要求されるのは、事実の認識のない行為者が、客観的に行為規範に反した結果を発生させてしまったとしても、区域犯の動揺がきたされないからである。
違法性の意識: 違法性の意識を欠いている行為者の行為は、規範を動揺させているのであり、行為規範によるコントロールによって犯罪を防止する立場からは無視できない事態となる。
・答責原理: 事実の認識と違法性の意識は質的に異なったものである。このように考えるならば、責任説における責任非難、すなわち答責原理は不当なものではなく、まさに論理的必然となる。
・故意の提訴機能: 事実の認識と違法性の意識の質的差異は、故意の提訴機能を要求すべきでないという結論を導くことになる。
・共同体の視点: 我々の属する共同体においては、個々人は自由ではあるが、高度に発達した現代社会においては、法に従った行動が要求されている、法順守義務が存在する。国民は、ただ単に「禁止されていると知っていること」のみを行為しないというだけでは足りず、自己の行為が他者の法益を侵害しないよう、常に意識して注意深く行動しなければならない。
・法遵守義務: 国民に法順守義務を課すことは、国民にとって酷なことではなく、違法行為を避けるために注意を払えばよいだけのことである。
 
(3)違法性の意識の可能性の不存在
・法遵守義務: 責任説において、法遵守義務があるとされた場合、それは法を知る義務ではない。
・責任説から: 違法性の意識が欠けたことについて無理もない場合には責任が阻却される。それゆえ、人は自己の決定の正当性について、自己の能力の範囲内で責任を負う。
違法性の意識が欠けた場合: 違法性の意識が欠けたことが無理もない場合には、行為者の動機づけが不十分であった場合であることから、刑罰を正当化しえず、特別予防の必要性が欠け、責任が阻却されることになる。
・一般予防: すでに行為者の行為規範違反の点において、違法性の意識の可能性が欠けていたとしても一般予防の必要性は認められる。また個々人それぞれの問題である違法性の意識の可能性の領域において、国民一般に向けられる行為規範が問題になるとは思われない。ゆえに、一般予防の必要性が欠けるとすべきではない。
・責任説と厳格故意説との対立: 規範的責任すなわち答責性と、心理的責任すなわち行為者の心理的態度という、責任に対する捉え方の対立が見られる。今日において、行為者の答責性を重視する社会である必要性が強く感じられるのであり、責任説こそが現代社会に相応しい見解であると評価することができる。
 
6−3.結びにかえて
・確信犯・テロリズム: 反対動機が形成されておらず、規範の壁を乗り越えたといえないとしても、規範意識を働かせることによって、当該社会内においては、暴力により信念を実現することが許されないということを認識し、行為を止まることが可能であったため、当然に非難可能である。
・法定犯・行政犯: 行為に当たっては、法に違反しないかどうかを調べ、それでも不安が払拭されないのであれば関係官庁に問い合わせ等を行う必要性が認められる。この場合、一定の場合には、ノーアクション・レター制度が有用である。