事実的故意と違法性の意識

前回(id:kokekokko:20090512#p1)のつづき。

一原論文

1 概要
一原は、刑事立法の活性化とよばれる状況において、「国家と個人の負担分配」の視点から、違法性の意識の可能性の判断基準を再検討する。ドイツ判例での「良心の緊張」「熟慮義務」、そしてこれへの批判からはじまるドイツ学説での「契機」理論へとつながる流れに対して、「法を知る義務」の当否を中心に判断基準を検討し、事案の解決をはかるものである。
 

1 違法性の錯誤と負担の分配(二・完) 関西大学法学論集54巻1号82ページ以下 2004
2 違法性の錯誤と負担の分配(一) 関西大学法学論集53巻6号104ページ以下 2004

 
2.違法性の錯誤と負担の分配(一)(法学論集53巻6号)
2−1.問題と視座の設定

(1)我が国の判例
・不要説: 判例は、違法性の際釘は故意の成否に影響を及ぼさないとして、違法性の意識不要説を採用してきた。
大審院: 「勅令の公布を知らず、また知りうべからざる状態にあったとしても、その勅令の内容に該当する行為を認識して実行する場合には、犯意がないとはいえない*1。」
・下級審判例: 違法性の認識の欠如に「相当の理由」があれば故意を阻却する、という判例が多数存在する。
・石油やみカルテル生産調整事件: 東京高裁は、故意の成立を否定。「生産調整は業界が通産省に無断で行う場合には独占禁止法違反になるが、被告人らは通産省に報告しその意向に従ってこれを行っており、通産省の行政に協力しているのだからこのばあいには同法に違反しないと思っていた。」被告人に対して「違法性を意識しなかったことには相当の理由があるというべきである」とした*2
・百円札模造事件: 最高裁は、「違法性の意識を欠いていたとしても、それにつきいずれも相当の理由がある場合には当たらないとした原判決の判断は、これを是認することができる。」とした*3
・行為の違法性の意識を欠くにつき、「相当の理由」が存在する場合には犯罪不成立とする余地を残していることは否定できない。
 
・「相当の理由」の判断に関する一般的な基準: 百円札模造事件控訴審*4では、特別の事情が存在するのは、「本件の刑罰法規に関し確立していると考えられる判例や所轄官庁の公式の見解又は刑罰法規の解釈運用の職責のある公務員の公の言明などに従って行動した場合ないしこれに準ずる場合などに限られる」とする。
・このような判断の背後には、国の行政機関を信頼した場合にまで行為者に処罰のリスクという負担を強いることはできない、との考慮がある。
・私人の情報を信頼した場合: 弁護士・学者・職業団体などを信頼して行為した場合に「相当の理由」が認められた例はほとんどない。「弁護士や学者の意見を信じた場合には犯罪が成立しないとすると、結局、法制度はこれらの意見によって左右されることにもなりかねない」。
・一原からの疑問: 国家によって資格を与えられた弁護士の見解を信頼した場合にも、本当に免責の余地はないのであろうか。
・調査・照会しなかった場合: 行為者の知能あるいは職業等に照らして、当該法状況について調査・照会すべきであったのにも拘らず、これを怠って行為に出た、という点で「相当の理由」を否定する。ここでは、行為者の非難可能性が、法を知るための努力を怠った点によって根拠づけられている。
・一原からの疑問: このような義務は実際に存在し得るのか。仮に存在するとしても、この義務への違反が、違法性の錯誤に陥った状態で違法行為に出た行為者への非難可能性を根拠づけ得るのか。
・指摘: 違法性の意識を欠くことにつき「相当の理由」が存在する場合に、なぜ「法的非難の可能性がない」のかは説明できない。なぜ免責が「相当の理由」の存在する場合に限られるのかを説明し得ない。
 
(2)我が国の学説
・認識可能性説: 行為者の責任の要件として、違法性の意識の可能性で足りるとする立場が多数を占めている状況にある。妥当であると思われる。
・一原からの指摘: いかなる場合に認識可能性が欠けるのか、そもそもなせ認識可能性がない場合に責任が阻却され得るのか、という問題については、いまだ議論が尽くされているとはいえない。
・松原説: 違法性の認識可能性とは「自己の行為が法的に許されているかどうかについて、行為の法的性格を検討することができた場合である」として、(1)行為者に自らの行為の法的性質を検討するための契機が与えられていたか否か、(2)この契機を利用して自らの行為を法規範に従った行為へと動機付ける事ができたか否か、という基準を立てる。
・一原からの批判: なぜそのような基準が導かれ得るのか、ということには十分な説明が与えられていない。合理的且つ一貫した限界設定を可能にする、指導的な観点が欠けているのである。さらに、判例と同様に、なぜ相当の理由がある場合には責任が阻却され得るのか、という点が明らかではない。
・高山説: 国家刑罰権からの個人の行動の自由保障という観点から、「法に従った動機づけ」が行為者に可能だったことが非難可能性の前提であるとする。違法性の認識可能性が肯定されるのは、行為者の法的な知的水準にかんがみて合理的に違法評価に到達し得た場合である。
・一原からの批判: 「合理的に違法評価に到達し得た」という基準jは、違法性の認識可能性の単なる言い換えに過ぎず、判断基準としては有用でない。
 
(3)我が国の議論に欠けているもの
・指摘: (1)なぜ行為者が違法性の意識を欠いたことにつき相当の理由がある場合には(故意)責任が阻却され得るのか、という根本的な問いに対する答えを見出すことができない。(2)違法性の認識可能性に関する指導的な観点と個別事例における具体的な基準との関係も、十分には明らかにはされていない。
判例: 相当の理由がある場合には故意(責任)を阻却するとの立場に立つ者が下級審判例に限られていることもあり、一般的な基準になり得るものは示されていない。
・学説: 違法性の認識可能性を考えるにあたっての指導的観点と、事例解決のための具体的な基準との関連付けが欠けている。
 
・ドイツ刑法17条: 禁止の錯誤を「回避し得たか否か」が判断の基準となっている。禁止の錯誤が回避し得ない者であった場合には、行為者は責任なく行為したものと評価される。これに対して、錯誤が回避し得るものであった場合には、刑が減軽され得るに過ぎない。
・ドイツの判例: 法共同体の構成員は、自らがまさに為そうとすることが法的な当為命題に合致するか否かを認識しなければならないとの理解から、「良心の緊張」という基準を問題としており、この点で、指導的観点と個別基準との関連が意識されていると言える。
・照会義務: ドイツでは従来方、行為者の照会義務が論じられている。
 
(この項つづく)

*1:大判大正13年8月5日刑集3巻611ページ

*2:東京高判昭和55年9月26日高刑集33巻5号359ページ

*3:最決昭和62年7月16日刑集41巻5号237ページ

*4:札幌高判昭和60年3月12日刑集41巻5号247ページ