井田良「講義刑法学・総論」

 責任論の基礎(354頁)
*刑法において「責任がある」とは、その違法行為について行為者(の意思決定)を非難しうることをいう。すなわち、責任とは、非難ないし非難可能性を意味する。
*現在では、応報刑論を基本とする行為責任論が支配的である。しかし、だとしても刑法上の責任は道徳的・倫理的責任と同じではなく、刑罰に道義的非難の性格を持たせるべきではない。
*そこで、責任を道義的非難ではなく、法的非難として理解する法的責任論が広く支持されるに至っている。
 責任と自由意思
*責任とは、意思の自由(ないし他行為可能性)の存在を前提とした判断である。
*ただ、法的責任の前提となるのは、経験的事実としての自由と可能性ではありえない。∵(1)事実としての存在は、証明不可能(2)性格の傾向性ゆえに自由の余地は狭まり責任が否定されることとなる
*責任の有無と程度を決めるための基準としての自由と可能性は、経験的事実ではなく、規範的要請ないし仮設として前提に置かれるものでなければならない。
*責任判断の標準は、当該の具体的状況に置かれた行為者は、社会の側からいかなる行為をどの程度に期待されるかという社会的期待の有無と程度である。(平均人標準説から)
*しかも、自由意思の仮設は合理的である。刑法による行為統制とは、行動準則を提示し、違反の際の処罰を警告し、刑法規範に従うかどうかは個人の自己決定に委ねつつも、違法行為への意思決定の回避を期待することを通じて行われる。
*やわらかな(ソフトな)決定論は、決定論と自由意思とは両立すると考える。意思決定が自由であることは、原因がないことではなく、強制されていないことをいう。
*性格相当性(実質的行為責任)の理論は、責任と刑罰は、その行為が自由であればあるほど、重くなるとする。つまり、行為者の規範意識がストレートに違法行為として表れているほど、重いものとなる。
*しかし、決定論にはなお問題がある。選択可能性が排除された形で行為者の規範意識が形成されたとすれば、その意思決定に責任を問いうるかは疑問である。ex窃盗常習者に育てられた子と何不自由なく幸福な家庭に育った子
*また、決定論に基づく責任を前提にすると、責任主義の原則はそのままでは維持されえない。責任概念にはストレートに予防的考慮を持ち込んではならないはずである。
 責任の要素
心理的責任論によれば、責任判断は、行為者の頭の中にある心理的事実の確認をいう。
*そこでは、責任能力は責任そのものではなく責任の前提であるとされる。
心理的責任論は外界に生じた結果(違法)に対応する悪い心理的状態(責任)という構造であり、「違法は客観的に、責任は主観的に」という標語で表現される。結果無価値論と心理的責任論(そして故意説)は、ワンセットで理解されるべき学説である。
*規範的責任論によれば、責任の本質はむしろ非難可能性という否定的価値判断であり、故意・過失という心理的事実があってもそれでも責任を問いえない場合がある。
*そこでは、責任は行為者の頭の中にあるのではなく、裁判官の頭の中にある。
*責任要素は、規範的要素のみからなる。
*責任判断は、規範意識による動機づけ制御の可能性の判断である。非難は、規範意識を働かせることにより違法行為に出ようとする動機を抑制し、意思決定に至らせないべきであったのに、意思決定に至らせたことについての否定的価値判断である。
規範意識による動機づけ制御が可能であったといえる(=責任非難が可能)ためには、知的要素(その行為が違法であることの認識可能性)と、動機づけ制御要素(意思決定を抑制するため動機づけを制御することの可能性)が必要である。

知的要素  1)弁識能力  2)違法性の意識の可能性
動機づけ制御要素  3)制御能力  4)適法行為の期待可能性