論文を読む

■三田菜穂「明治三十八年「刑ノ執行猶予ニ関スル法律」(法律第七十号)について」(成蹊法学81号1ページ)
<概要>
・国際監獄会議の第4回会議(1890(明治23)サンクトペテルブルク)にて、刑の執行猶予(当時は「条件付判決」)が議題として上がった。当時弊害が指摘されていた短期自由刑にかわり、譴責と並んで「再ひ罪を犯すに至らされは前に申渡したる刑を猶予する」との議案が提出された。
・日本でも議論が紹介された。短期自由刑の効力が薄弱で財政負担が大きいこと、監獄の不備、累犯増加対策が理由として挙げられ、「犯罪必罰を守るに過ぎると、かえって累犯者を養成するに等しい結果となる」などと主張された。
・刑法改正作業において執行猶予制度が立案された。最初期の草案(横田案、明治25頃)では、初犯の懲役・禁錮6月以下の者(37条)、初犯で罰金刑を支払えず定役に服すべき者(38条)、他人に損害を生じさせなかった者、財産犯で自首し損害賠償した者(ともに39条)につき、情状により5年間執行猶予することができる、とされた。短期自由刑および貧困者(入獄により貧しさを助長させる、とされた)について、5年(期間は刑の時効を基準とした)の期間で猶予されるというものである。「他人に損害を生じさせなかった者」は主に賭博罪が念頭に置かれていたようである。「財産犯で自首し損害賠償した者」は当時の刑法86条(損害賠償で罪2等を減ずる)による*1
・執行猶予の関与者(検事のみか、裁判官も関与させるか)や、前科抹消の有無についても、議論された。刑の言渡しの失効よりも、刑の執行免除が採用されたのは、当時のフランス草案(1893)の影響がみられる。また、猶予判断基準に情状を採用した点は、イタリア法に依拠していると考えられる。
・その後、明治30年刑法改正案、明治33年刑法改正案が作成され、明治34年案が帝国議会(第15回)に提出された。提出された要旨では、予防目的による累犯対策として執行猶予を採用した、とある。その後に提出された明治35年案での議論では、執行猶予は特別法として試験的に運用するほうがよいという提案もあった。
日露戦争により刑法改正作業が見送られることとなり、執行猶予に関する規定により作成された法案が帝国議会(第21回)に提出され、若干の修正ののちに可決された。司法省、内務省が発した各種訓令により、猶予者の住所管理や警察による視察が決定された。
<読んで>
・最初期の草案から、議論が進むごとに対象者の範囲が拡大された点は興味深い。それだけ執行猶予制度が期待されていた(つまり、短期自由刑制度の弊害が問題となっていた)ということであろう。当初の狙いは条約改正のために行刑制度を国際基準に合わせるものであったが(議論でも、外国人入獄者が意識されていた)、その後、刑罰制度に関するヨーロッパ各国の問題意識が徐々に日本でも指摘されるようになった様子がうかがえる。
・「今後の課題としたい」としている保護観察制度がやはり気になる。猶予者の現実の監視が警察の任務として適切かどうか(この点、同時期の精神病者監護法などとの比較が参考になると思う)。執行猶予に付される犯罪は常習性が高い賭博や窃盗が多いため、生活を身近にする者による監督が有益であるという感覚は当時からあったはずである。
 
■新井勉「朝鮮総督府の笞刑について」(日本法学80巻2号1ページ)
<概要>
・律で定められていた笞刑は、日本では明治5年に廃止されたが、清国も韓国も身体刑を残していたため、日本が支配した台湾・朝鮮では便宜上、笞刑が定められた。朝鮮では明治45年制令13号「朝鮮笞刑令」が公布され、大正9年に廃止された。
・朝鮮刑事令(明治45年制令13号)により内地の刑事法令を依用することとしたが、同時に朝鮮笞刑令も公布された。対象者は16歳以上60歳以下の朝鮮人男子で、(1)3月以下の懲役・拘留または(2)100円以下の罰金で無住所または無資産の場合、情状により言い渡される。
・笞刑は監獄または即決官署で、非公開で執行する。細目は施行規則(明治45年朝鮮総督府令32号)、執行心得(明治45年朝鮮総督府訓令41号)に定められた。笞の細部は不明であるが、日本の新律綱領の笞が原型であろう。「執行者は打つ回数を発声して数える」という規定はあるが、打力についての規定はみられない。
・判決で笞刑を言い渡された者は、窃盗、賭博、傷害などが多い。大正8年には、保安法規違反が上位にあるが、これは3・1独立運動の影響であろう。裁判所・即決官署で笞刑を言い渡された者の総数は、約29万人である。
<読んで>
・偶然にも先の三田論文と共通するのは、短期自由刑・罰金刑の弊害である。笞刑は短期自由刑・罰金刑(留置)の代替として機能していたのかもしれない。しかし日本の律と比しても朝鮮笞刑令の規定は粗く、実際の運用は執行機関に委ねられていたあたりは、成熟した規定とはいいがたい。軽微犯罪については刑が警察署長により即決されていた点(総督府の警察幹部の多くは憲兵の兼務であった)を含め、内地での制度との差異は大きい。
・当時の原資料も、人数については正確に記されているが、「故障事件5名」(20ページ注17)など実態が不明な原資料も多い。そもそも執行が非公開なのでありやむを得ないのであるが、違法執行や死傷事故などの状況は不明なのであろう。

*1:なお86条は、「未遂に終わった者よりも既遂に達した者のほうが減軽の可能性が顕著であり不合理」として早い段階で削除が検討されていた。