論文を読む

きのうにひきつづき。
<読んで>の記述は、当該文献に対する言及だけでなく、かかる見解を敷衍するとこうなるかもしれないというものも含む。
 
■松原芳博「刑法と哲学」(法と哲学1号57ページ)
<概要>
・刑罰の正当化根拠のうちの応報刑論としては、(1)被害応報、(2)秩序応報、(3)責任応報が挙げられる。また、目的刑論としては、(1)消極的一般予防、(2)積極的一般予防、(3)特別予防が挙げられる。無目的な刑罰は現代の世俗国家において正当化されない。一方で、目的刑論に対しては、責任主義に反する(抑制要因とならない)と批判される。
責任主義の根拠としては、(1)責任の清算、(2)予防効果、(3)予測可能性の保障、(4)特別犠牲の受忍義務が挙げられる。社会的目的のために行為者に課される犠牲が受忍限度を超えないこと、および、その犠牲に対して補償がなされることが刑罰正当化の根拠となる。これが、行為者の責任である。
・正当化根拠は2つの視点から提示される。国家の側からの刑罰権の正当化根拠は、犯罪予防による法益保護に求められる。行為者にとっての刑罰受忍義務の正当化根拠は、自らの犯罪に対する責任に求められる。
・近時有力な見解は、刑罰制度の正当化を予防に求め、特定の個人に対する刑罰の適用の正当化を応報に求める(H.L.A.ハートなど)。しかし予防目的を立法段階に閉じ込め、また個々の裁判で絶対的応報刑論に基づく刑の適用・量定を正当化することになる点で疑問である。
<読んで>
・規範的責任論を貫徹させると、「責任とは、固有の実体というより、行為者と裁判官とのコミュニケーション過程において行われる判断である」となる。違法性の意識で主張される「責任の実質は、国家と行為者の緊張関係に(も)ある」という立場もその流れにあると思う。そうなると、国家と行為者の双方に、刑罰正当化根拠(刑罰を与える正当化と受忍義務の正当化)が存するというのは、確かにその通りであろう。
・その一方で、目的刑論が刑罰の歯止めとならないゆえに刑罰適用場面への流入を阻止しようというハートらの主張にも、納得できる一面はあるのであり、行為者の側からのブレーキが、実際の裁判過程においてどのように考慮されるのか、具体的に言えば個々の責任要素をどう判断するのかが検討される必要がある。
・ただ、責任の分野での学説の有力な流れは、「責任の過度の規範化の抑制」であり、上記の見解に対しては「責任は裁判官の頭の中にあることになってしまう」などと批判される。特に、違法性の意識の可能性と切り離された事実的故意になお責任要素としての地位を与える見解や、精神障害責任能力を直結させる立場は、これに依るところがある*1
・なお、刑罰制度の正当化を予防に求めると、法定刑の抑制原理が働かなくなるという疑問はなお残る。低い法定刑が存在する理由は、結局、他罪とのバランスだけになるのではないか。
 
瀧川裕英「死と国家」(法と哲学1号167ページ)
<概要>
ホッブズのいう自然状態は、動物的状態ではなく人間が名誉を求めて闘争する状態である。
・囚人のディレンマ状態では、ナッシュ均衡(最終的に両者が落ち着く状態)がパレート効率的(多い利得を得られる状態)ではない。
・解決方法としては、非協力的な者に制裁を与える(リヴァイアサン。国家刑罰権など)か、裏切りによる利得を減らす(シカ狩り)方法がある。しかし後者は、相手の戦略あるいは相手の合理性に対する信頼が前提となる。
・高慢な者(自分と相手との相対的優劣を重視する者)がいれば、シカ狩りであったとしても囚人のディレンマと同じく、非協力が均衡点となる。
・囚人のディレンマは、繰り返しゲーム(終わりがない)時には「相手が裏切るまでは協力的にふるまう」ことができるが、人間の場合には、死があるために繰り返しゲームとはならない。これに対しては、宗教、名誉、集団同一性によって、死をゲーム終了と捉えないとする方法がある。そのうえで、国家による強制力の担保が必要である。
<読んで>
・国家強制力が、宗教規範や社会規範(名誉など)に対する最後の砦となるというのは、確かだと思う。その一方で、これら規範が相手に対する信頼をどう置くのかが、問われるかもしれない。囚人のディレンマは、相互が相手の戦略を(採用しないまでも)理解する必要があるが、他者理解・他者信頼はしばしば、組織の内部同一性の強さと反比例する。
・囚人のディレンマでの問題点の一つは、「自分が協力的にふるまったが相手が非協力的であったとき」に自分の点数が低いことにある。これを「全体が得をしたのだからいい」「互いの利益を分け合えばいい」とする(本論文172ページ注9の「利他主義」)のは、現実には困難を伴う。自分と相手との差によって何かを測る、という価値観は根強い。自分と相手が同じ(と信じている)仕事をして「2人とも報酬1万円」という場合と「自分は2万円で相手が3万円の報酬」という場合とで、前者と比して後者に強い不満感を抱くというのは、あり得る。
・その意味で、功利主義的発想は公正と衝突するのであろう。「正義のためのコスト」に対する感覚の相違も、そこにあるかもしれない

*1:もちろん事実的故意に独自の意義を与える見解もあるが。