石井徹哉「無免許運転罪の故意」(岡野古稀133ページ)

事実的故意に評価的要素を含ませないという流れは近時かなり強くなっています。責任説の立場からも(たとえば山中敬一)、故意説の立場からも(たとえば浅田和茂)、事実的故意の過度の規範化に対して歯止めをかけ、法益侵害性の認識などに対して「故意の対象としては過剰である」と批判します。その流れをくむ南由介は、「意味の認識は規範の翻訳である」と表現しています。しかし石井説の立場からすると、故意は、裁判官によって法的認識へと平行的に評価されることになりますから、南説の理解については、認識の内容の点からも並行評価の把握の点からも到底承服できないものであるはずです。本論文では、この点が明言されていました。

刑罰法規を日常用語に翻訳するといってみても、なんら問題は解決するものではなく、論者が想定している「意味」を一方的に押しつけているにすぎないともいえるのである。
(139ページ)

 
ただ、この事案について論者から批判されている立場が故意につきもっとプリミティブな認識で足りると反論することも、不可能ではないと思います。具体的には、南説からは、「大型自動車で運転する」という認識につき、「大型自動車」という法的概念を「特殊な免許が必要な大きな自動車」と翻訳し、行為者が実際に視認した当該車両の大きさについての認識で足りるとしたり、高山説からは、大型自動車の運転には普通自動車を運転する以上の技能が必要であることから、ここで刑法が着目する属性は乗車定員による区分ではなく大型自動車の大きさであるとして、乗車定員はあくまで「自動車の大きさ=運転困難性」を指し示す要素であり、たとえば銃刀法における刃物の刃渡り長さなどと同様、具体的な定員数値は必要ではない、と主張することも可能な気がします。*1。私は乗りませんが。
個人的には、「積極的に本件自動車が大型自動車でないとの認識」(144ページ)は、「法にいう大型自動車」かどうかの判断が事実的故意の成立要素にはなじまないという理由で、違法性の意識に属するとしたほうがスッキリするかな、と考えています。その違法性の意識を故意の要素とするかどうかはともかく、通常の故意判断(射殺しようとする客体が人か熊か)とは異なる判断過程を経る、というわけです。事実的故意と違法性の意識との断絶に抗する立場の一つとして*2

*1:要するに、大型乗用の免許制限につき「運転技術の難易等からくる安全性の配慮から免許が制限されているというところ」か「より多くの人を乗車させうる可能性からくる形式的な警察許可」かの相違

*2:なお表記について、注14「南伸介」はおそらく「南由介」、注3「判時1406号14頁」は「裁判所時報1406号14頁」、なお判時は1929号124ページ。