精神保健福祉法の改正案

精神保健福祉法の改正案がアップされました(http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/soumu/houritu/183.html)。
これにより、保護者制度が廃止され、たとえば引取義務などがなくなることになります。

【現行】
(保護者)
第二十条 精神障害者については、その後見人又は保佐人、配偶者、親権を行う者及び扶養義務者が保護者となる。ただし、次の各号のいずれかに該当する者は保護者とならない。
 一 行方の知れない者
 二 当該精神障害者に対して訴訟をしている者、又はした者並びにその配偶者及び直系血族
 三 家庭裁判所で免ぜられた法定代理人、保佐人又は補助人
 四 破産者
 五 成年被後見人又は被保佐人
 六 未成年者
2 保護者が数人ある場合において、その義務を行うべき順位は、次のとおりとする。ただし、本人の保護のため特に必要があると認める場合には、後見人又は保佐人以外の者について家庭裁判所は利害関係人の申立てによりその順位を変更することができる。
 一 後見人又は保佐人
 二 配偶者
 三 親権を行う者
 四 前二号の者以外の扶養義務者のうちから家庭裁判所が選任した者

しかし、保護者制度は形を変えて一部残ることになります。その例が、医療保護入院の同意です。

【現行】
医療保護入院
第三十三条 精神科病院の管理者は、次に掲げる者について、保護者の同意があるときは、本人の同意がなくてもその者を入院させることができる。
 【1号以下略】

【改正案による改正後】
医療保護入院
第三十三条 精神科病院の管理者は、次に掲げる者について、その家族等のうちいずれかの者の同意があるときは、本人の同意がなくてもその者を入院させることができる。
 【1号以下略】
2 前項の「家族等」とは、当該精神障害者の配偶者、親権を行う者、扶養義務者及び後見人又は保佐人をいう。ただし、次の各号のいずれかに該当する者を除く。
 一 行方の知れない者
 二 当該精神障害者に対して訴訟をしている者、又はした者並びにその配偶者及び直系血族
 三 家庭裁判所で免ぜられた法定代理人、保佐人又は補助人
 四 成年被後見人又は被保佐人
 五 未成年者

改正後では、家族等の除外規定から破産者が外されています。
 
また、心神喪失医療観察法でも、保護者は残っています。

【改正案による改正後】
第二十三条の二 対象者の後見人若しくは保佐人、配偶者、親権を行う者又は扶養義務者は、次項に定めるところにより、保護者となる。ただし、次の各号のいずれかに該当する者を除く。
 一 行方の知れない者
 二 当該対象者に対して訴訟をしている者、又はした者並びにその配偶者及び直系血族
 三 家庭裁判所で免ぜられた法定代理人、保佐人又は補助人
 四 破産手続開始の決定を受けて復権を得ない者
 五 成年被後見人又は被保佐人
 六 未成年者
2 保護者となるべき者の順位は、次のとおりとし、先順位の者が保護者の権限を行うことができないときは、次順位の者が保護者となる。ただし、第一号に掲げる者がいない場合において、対象者の保護のため特に必要があると認めるときは、家庭裁判所は、利害関係人の申立てによりその順位を変更することができる。
 一 後見人又は保佐人
 二 配偶者
 三 親権を行う者
 四 前二号に掲げる者以外の扶養義務者のうちから家庭裁判所が選任した者

ここでは、対象者の順位や、除外対象に破産者が含まれている点も含めて、現行法と内容が変わっていません。
なお、順位の変更は、申立てにより家裁が行うのですが、その順位の変更により先順位となる者は、以前はかかる決定に対して即時抗告ができたのですが(家事事件手続法(現行法)241条3項1号)、今回の改正によりそれはできなくなっているようです(改正案241条3項)。

井田良「講義刑法学・総論」

 責任論の基礎(354頁)
*刑法において「責任がある」とは、その違法行為について行為者(の意思決定)を非難しうることをいう。すなわち、責任とは、非難ないし非難可能性を意味する。
*現在では、応報刑論を基本とする行為責任論が支配的である。しかし、だとしても刑法上の責任は道徳的・倫理的責任と同じではなく、刑罰に道義的非難の性格を持たせるべきではない。
*そこで、責任を道義的非難ではなく、法的非難として理解する法的責任論が広く支持されるに至っている。
 責任と自由意思
*責任とは、意思の自由(ないし他行為可能性)の存在を前提とした判断である。
*ただ、法的責任の前提となるのは、経験的事実としての自由と可能性ではありえない。∵(1)事実としての存在は、証明不可能(2)性格の傾向性ゆえに自由の余地は狭まり責任が否定されることとなる
*責任の有無と程度を決めるための基準としての自由と可能性は、経験的事実ではなく、規範的要請ないし仮設として前提に置かれるものでなければならない。
*責任判断の標準は、当該の具体的状況に置かれた行為者は、社会の側からいかなる行為をどの程度に期待されるかという社会的期待の有無と程度である。(平均人標準説から)
*しかも、自由意思の仮設は合理的である。刑法による行為統制とは、行動準則を提示し、違反の際の処罰を警告し、刑法規範に従うかどうかは個人の自己決定に委ねつつも、違法行為への意思決定の回避を期待することを通じて行われる。
*やわらかな(ソフトな)決定論は、決定論と自由意思とは両立すると考える。意思決定が自由であることは、原因がないことではなく、強制されていないことをいう。
*性格相当性(実質的行為責任)の理論は、責任と刑罰は、その行為が自由であればあるほど、重くなるとする。つまり、行為者の規範意識がストレートに違法行為として表れているほど、重いものとなる。
*しかし、決定論にはなお問題がある。選択可能性が排除された形で行為者の規範意識が形成されたとすれば、その意思決定に責任を問いうるかは疑問である。ex窃盗常習者に育てられた子と何不自由なく幸福な家庭に育った子
*また、決定論に基づく責任を前提にすると、責任主義の原則はそのままでは維持されえない。責任概念にはストレートに予防的考慮を持ち込んではならないはずである。
 責任の要素
心理的責任論によれば、責任判断は、行為者の頭の中にある心理的事実の確認をいう。
*そこでは、責任能力は責任そのものではなく責任の前提であるとされる。
心理的責任論は外界に生じた結果(違法)に対応する悪い心理的状態(責任)という構造であり、「違法は客観的に、責任は主観的に」という標語で表現される。結果無価値論と心理的責任論(そして故意説)は、ワンセットで理解されるべき学説である。
*規範的責任論によれば、責任の本質はむしろ非難可能性という否定的価値判断であり、故意・過失という心理的事実があってもそれでも責任を問いえない場合がある。
*そこでは、責任は行為者の頭の中にあるのではなく、裁判官の頭の中にある。
*責任要素は、規範的要素のみからなる。
*責任判断は、規範意識による動機づけ制御の可能性の判断である。非難は、規範意識を働かせることにより違法行為に出ようとする動機を抑制し、意思決定に至らせないべきであったのに、意思決定に至らせたことについての否定的価値判断である。
規範意識による動機づけ制御が可能であったといえる(=責任非難が可能)ためには、知的要素(その行為が違法であることの認識可能性)と、動機づけ制御要素(意思決定を抑制するため動機づけを制御することの可能性)が必要である。

知的要素  1)弁識能力  2)違法性の意識の可能性
動機づけ制御要素  3)制御能力  4)適法行為の期待可能性

森裕「裁判員裁判における鑑定事項と精神医学的判断について」

はじめに
裁判員裁判では、「犯行時の被告人の精神状態」といった鑑定事項に対して、どのような精神医学的判断が据えられるべきなのか。
 鑑定事項と精神鑑定
*「判断対象」(精神状態)、「判断方法」(精神医学的方法)、「判断結果」(鑑定事項の帰結)の枠組みに対して、実務・刑法学説からは、鑑定事項が及ぶ射程などについての検討が重ねられてきた。しかし、鑑定事項や判断構造は大きく変わることがなかった。
 鑑定事項の転向
最判平成20・4・25では、「生物学的要素ならびにそれが心理学的要素に与えた影響」の判断は精神医学の本分である、と判断された。これは、その先の責任能力の結論は鑑定の判断結果に含まれるべきものではない旨が、間接的に明らかにされたものといえる。
*司法研究(「難解な法律概念と裁判員裁判」司法研究報告書61輯1号42頁)では、鑑定事項について、
+犯行時の被告人の精神障害の有無・程度といった医学的所見
精神障害が反抗に与えた影響の有無・程度について精神医学の見地から推認できる事実
とされた。これまでの鑑定事項と比べると、対象範囲は狭められており、純精神医学的な内容に限定したものと理解できる。
*しかし、この限定は十分なものではない。精神医学的なものについて「程度」について言及されうる余地が残っているため、程度判断(「著しい幻聴により」)が法的な責任能力判断に伝播しかねないと思われる。
*さらに、鑑定事項は、判断対象・判断結果について、範囲だけでなく内容そのものも規定しうる。
*鑑定事項の内容としては、「精神症状がどのような機序を介して犯行に影響を与えたか」(最決平成21・12・8)とするほうが、鑑定人の裁量が差し挟まれる余地はもはやなく、裁判所が求める判断結果がダイレクトに提示される。
 複数鑑定と責任能力判断
*放火殺人の事例(大阪地判平成23・10・31)では、複数鑑定での診断名相違が起きたが、診断基準について深入りせず「妄想はあってもそれに影響されることなく、主体的に判断し行動できた」と判示した。
*裁判所が精神鑑定に求めるものが「精神症状がどのような機序を介して犯行に影響を与えたか」の解明である、とする責任能力判断の構造がとられる限り、診断名相違の問題は克服しうる。
 精神鑑定における定性的判断と法的判断
*鑑定事項が「精神症状がどのような機序を介して犯行に影響を与えたか」という内容であれば、精神医学的判断の内容にも変化が生じる。
*これまでの精神鑑定では、「著しい幻聴」などの程度判断(定量的判断)であるといえる。これによって、精神鑑定の結論は決定してしまっているのであり、公判期日では、「著しいか著しくないか」という本来純精神医学的な内容が当事者によって争われることになる。
*しかし、鑑定事項として「精神症状がどのような機序を介して犯行に影響を与えたか」という内容が定められた場合、求められるのは精神症状の存否やそれと犯行との因果的関連性であり、定性的判断である。
責任能力判断(法的判断)の資料となるべき精神機能の評価は、精神症状と精神機能との因果的関連性を検討してゆく過程に、含まれてくる。
*そうであるならば、精神医学的事実(定性的判断)を総合的判断の資料とし、「精神障害のためにその犯罪を犯したのか、もともとの人格に基づく判断によって犯したのか」(司法研究)といった評価スケールを利用しながら、「法規範の側からの要求」を入れた法的判断が可能になるといえる。

樋口裕晃・小野寺明・武林仁美「裁判員裁判における法律概念に関する諸問題13 責任能力(1)」

判例タイムズ1371号77ページ以下)
裁判員への責任能力概念の説明について。本研究における裁判員への説明例は標準的なものであるが(刑罰目的については応報+一般予防+特別予防、責任能力については他行為可能性からの非難可能性に基づく説明)、本研究では責任能力に関する理論状況などについても、まとめられている。
・ここでは、その理論状況のまとめについてみてみる。

第1 責任能力概念に関する総論的検討
1 はじめに
・大阪高裁所管内で責任能力が問題になった一審判決を中心素材として取り上げる。
2 責任能力の本質について
(1)責任主義の意義について
・現在、責任主義について一般的に説明されているところは、「責任(非難可能性)なければ刑罰なし。」という原則であり、ある行為を処罰するためには、当該行為を回避しなかったことについて、行為者を非難できつことが必要である、という考え方である。
・国民の行動の予測可能性を、主観面で保障するものであるとされている。
・狭義では「故意・過失がなければ犯罪は成立しない」、広義では「違法性の意識の可能性・責任能力・期待可能性が欠如することにより行為者を非難できない場合には処罰してはならない」という意味で使用される。
・処罰範囲を限定する消極的な原理であると解されている。
・なお大谷實は、責任は、刑罰を根拠づけるとともに限定づける機能も有するものである、とする。
・また、量刑面における罪刑のバランスも、責任主義の要請の一つとされている。

(2)責任に関する諸説
・責任の本質について、かつて、意思の自由を認めるか否かという観点によって、道義的責任論(認める)と社会的責任論(認めない)が対立していた。
・道義的責任論が通説的となり、折衷的な見解として相対的意思自由論、ソフトな(やわらかな)決定論、さらには、モデストな決定論、規範的責任論、可罰的責任論、積極的一般予防論を基礎とする目的刑論などが展開されている。
・林幹人の説明では、相対的意思自由論は、意思は相対的に自由であるにすぎない(意思は一定限度、環境と素質により決定されている)が、それでもその範囲内で人は自由に意思を決定しこれに従って行動することができる、とするものである。
・林幹人の説明では、モデストな決定論は、われわれは世界が法則の支配下にあるのかは知らないが、世界が(人間の意思・行為を含めて)確率的・統計的に決定されている、とするものである。
責任主義の背景にあるのは、応報刑論ないし道義的責任論。
応報刑論は、予防を考慮しない絶対的応報刑論と、予防を考慮する相対的応報刑論にわかれる。
・道義的責任論は、違法行為をしたという本人の意思決定を非難の根拠とし、責任が道義的非難に立脚したものであってはじめて、刑罰が説明できるとする。
・これに対して、近代学派の性格責任論では、責任の基礎を行為者の社会的危険性に求める。
・道義的責任論の内容をなす心理的責任論に対して、故意・過失という心理的事実のみでは、責任の本質を正しく把握できず、適法行為が期待できないときには責任非難を導けない、と批判があり、ここから規範的責任論がうまれた。
・規範的責任論は、行為者が他行為を行うことが可能であったにもかかわらずあえて犯罪行為を行った場合に、非難が可能であるというものである。
・さらに、実質的責任論は、規範的責任論を出発点としつつ、責任の内容は犯罪の一般予防と犯罪者の特別予防(ないし社会復帰)にとっての刑罰の必要性をいう立場である。社会的責任論に属するとされる(大谷)。
・可罰的責任論(鈴木茂嗣)は、二重の責任を要求する。「規範的責任」(可罰的責任を問うための必要条件)と「可罰的責任」(可罰性の必要十分条件)であり、期待可能性の理論は「規範的責任論」で役割を果たし、その限度内で「可罰的責任論」で処罰必要性・相当性が検討される。
・可罰的責任論(山中敬一)は、責任を、「狭義における責任」(責任が刑罰の基礎であり限界である)と「可罰的責任」(刑罰の必要性が責任を規定する)に分ける。これに対応して、非難可能性も、「規範適合的意思決定可能性」(意思決定の自由を対象とする判断)と「規範適合的行為可能性」(行為に移す意思決定の自由)に分ける。可罰的責任は、後者の意味における非難可能性である。
前田雅英は、刑罰効果を極大化するという目的刑論から責任主義を導く。積極的一般予防から、一般人から見て非難可能な行為のみを処罰しなければならない。非難可能性の内容は、「現在の我が国の国民が刑罰を科することを納得する事情」という観点から逆算する。

(3)責任能力制度の根拠について
・林幹人(「責任能力の現状――最高裁平成20年4月25日判決を契機として」上法52巻4号(2009)27頁)の分析。
*1 安田拓人: 刑罰目的は、予防でなく応報。自由意思により違法行為を選択したことが責任の根拠。自由意思はフィクションであってもよい。
*2 曽根威彦: 行為者本人を基準としても、他行為可能であったことが責任を基礎づける。
・これらに対して、林は、(重大な不利益を与える)刑罰がそれ自体として全であるとするのは不可解であり、刑罰は犯罪を防止するために必要な悪と考えなければならない、とする。
・非決定論は、科学的に証明されていない。そして、本人基準ならば、他行為可能性の証明は不可能である。
*3 町野朔: 特別予防の観点から、刑罰は、以後犯罪を犯さないように動機付けるために科されるサンクションであるとする。責任能力は、実定法によって特権化された責任阻却事由である。精神医療による処遇が適切な場合にはそちらを選ぶべきである。
・これに対して、林は、刑法は一般予防の機能を果たしており(また、果たすべきであり)、責任能力もこの見地から基礎付けられる、とする。再犯防止は、犯罪者の利益というよりは社会の利益である。また、責任能力の有無と強制医療とは、異なるものである。
・これらの上で、林は、自由意思は仮定的に判断されるべきであるとする。現実の意思(非難の対象)にかえて、あるべき意思をもったならば他行為可能であったとき、自由意思があったとする。そのあるべき意思をもち、他行為(適法行為)を選択させるためである。

(4)責任能力の本質について
・団藤重光は、責任能力とは、非難可能性の前提となる人格的適性である、とする。大谷實も、責任能力とは、責任非難を認めるための前提となる人格能力であるとする。
・大塚仁は、責任能力とは、有責に行為する能力、すなわち、行為者に責任非難を認めるための基礎としての、行為者が規範を理解しそれに適合した行為をなしうる能力である、とする。
佐久間修は、責任能力とは、当該行為者に規範的責任を加える前提条件として、有責に行為する能力があったかどうかの問題である、とする。その内容は、違法行為の意味を認識(是非弁別能力)したうえで、それに従って自己の行動を制御しうる能力(行動制御能力)である。
・これらに対して、平野龍一は、責任能力は有責行為能力だが、ある意味では刑罰適応能力である、とする。刑罰適応能力は、(受刑能力と異なり)行為時に要求され、その行為が刑罰を科すのに適したものかどうかという問題である。責任能力とは、およそ何らかの意味で有責に行為する能力があるかどうかの問題ではなく、刑罰で問うに足りる責任(可罰的責任)があるかどうかの問題である、とする。
・山中敬一は、責任能力とは、有責に行為する能力であって規範の要求に応答しうる能力であるが、それは刑罰を科するための前提的能力でもある、とする。
・浅田和茂は、責任能力とは、まず、決定規範の名宛人を示すという意味において、有責行為能力であり、責任前提であり(規範的責任能力)、行為者の一般的能力を意味する、とする。ついで、この規範的責任能力の程度が、可罰的責任能力の観点から検討されるべきである、とする。
・林幹人は、刑罰は、反規範的意思をもって規範に反したことを根拠として処罰することによって反規範的意思を持たないように人々を動機づけ条件づけるもの(一般予防)であり、責任能力とは、反規範的意思をもつ精神能力である、とする。
・堀内捷三は、責任能力とは、自己の違法な行為について責任を負う主観的な能力である、とする。予防的観点より、責任能力の判断にとって重要なのは、法の要求へと行為者を動機づけつのに足りるだけの精神的状態にあったか、という点である。
・実質的責任論、可罰的責任論が有力になってきているのは、意思の自由・他行為可能性について論証するのが困難であるとの見方から、これとは別の観点から責任非難を基礎付けようとしているからとみられる。

(5)責任主義及び責任能力裁判員に理解してもらうための説明の在り方について
・仲宗根玄吉は、決定論も非決定論もフィクションだとすれば、どちらを推定的に前提とするほうが刑事責任の説明にとって長所を持つかに帰する、とする。そのうえで、非決定論・意思自由論のほうが論理的に単純明快であり、犯人の改善に有用であり、刑法の保障機能にも適合する、とする。

責任主義の中における責任能力の位置付けについて
(1)責任能力と期待可能性ないし違法性の意識(の可能性)との関係
・期待可能性の理論は、行為時に存在する具体的事情の下で、行為者が他の適法行為を行い得るであろうと期待することができなかった行為について、責任非難することはできない、というもの。
違法性の意識(ないしその可能性)は、自己の行う行為が禁止されていることをしらなかった(ないし知ることができなかった)者に対しては、それをやめることを要求できず、行為者への責任非難を認めることができない、というもの。
・期待可能性と違法性の意識は、いずれも責任阻却事由という点で、責任能力と関係をもつ。
・井田良は、責任能力全体の上位概念が、違法性の認識とそれに従った意思決定の制御という二つの要素に求められ、それぞれが能力面と状況面に振り分けられている、というのが責任論の体系である、とする。原則として人間には責任能力が備わっていて、精神の障害という生物学的要素が存在するときに責任能力が否定されるという判断方法をとる方が、事実に即した安定した判断が可能である、とする。
*1 規範的責任論かつ責任要素説(責任能力は、個々の行為との関係においてその責任の要素の一つであるとする説)は、心理的要素が重視されることになる。責任能力は故意・過失の後に判断されるべき、とする考え方が一般的となる。期待可能性と責任能力は、外的事情か内的事情(精神障害)かの相違に過ぎない
・ただし、大塚仁は、構成要件的故意・過失は責任能力に先行させて判断するべきであるが、責任故意・過失は責任能力の後に判断するべきである、とする。
・林幹人は、責任能力は、違法性の認識の可能性の後、期待可能性の前に位置する要件と解される、とする。
*2 責任前提説(責任能力は、個々の行為から独立した統一性・持続性を持つ行為者の一般的・人格的能力であるとする説)からは、責任要素としての故意・過失に先立って責任能力を判断するのが原則になる。生物学的要素が重視されるため、期待可能性や違法性の意識の可能性とは独自に判断されることになる。
・浅田和茂は、責任能力を、故意・過失を持つ能力でもある、とする。ただし、浅田説は構成要件的故意を認めない立場であるため、構成要件的故意と責任能力との関係は、はっきりとしない。
(2)評議等における責任能力の判断順序
・これまでの刑事裁判実務は、責任能力は、構成要件該当性と違法性を検討した後に論じられるのが一般であった。
・その実質的理由は、客観的事実(起訴状の公訴事実の有無にかかわる事実)の確定の必要性があることである。また理論的理由は、(責任要素説からはこの判断順序は自然であるが)責任前提説からも、客観的犯罪の成否にかかわる事実認定をさしおいていきなり被告人の一般的人格能力として責任能力を先に論じるということは実務的には考えにくい。
・なお、平野龍一は、責任能力は責任の要件(前提)であるとしつつ、構成要件に該当する違法な行為をしたことが証明されていない者について、精神の障害があるかないかを判断するのは適当ではない、とする。
責任能力と同時に故意が争われるケースでは、判決の無罪理由中で、最初に公訴事実を掲げた後、責任能力を検討する中で故意についても検討する手法が採用される。
・この点、構成要件的錯誤の問題として錯誤論で議論するよりも、錯誤の原因となったと見られる責任能力の問題として集約し一括して論じるのが、むしろ論理的で実際的であるという見方も考えられる。
・期待可能性については、犯罪体系上の位置づけは、(i)故意・過失の構成要素とみる説(団藤)、(ii)故意・過失と並ぶ別個の責任要素とみる説(西原)、(iii)独立の責任阻却事由とみる説(福田)がある。期待可能性は積極的な犯罪成立要件というよりは特別の外部的付随的事情による責任阻却自由であると解するのが相当であり、(iii)を支持する。
・期待可能性の判断基準については、(i)行為者標準説、(ii)一般人標準説、(iii)国家標準説、(iv)総合説、がある。このうち、(i)に立つと、責任能力の判断部分と実質的に重なる部分が出てくるとも考えられる。
・以上によれば、期待可能性は、責任能力の有無を確定した後で論ずるのが相当であると考える。
 
医療観察法において、対象行為該当性が肯定されるためには主観的要件(故意など)が必要とされてきたが、激しい幻覚妄想状態での行為のように、構成要件的故意を欠く場合も考えられる。
判例(最決平20・6・18刑集62巻6号1812頁)は、対象者の行為が対象行為に該当するかどうかの判断は、「対象者が幻聴、妄想等により認識した内容」に基づいて行うべきではないとした。対象行為を外形的・客観的に判断して考察して、心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば対象行為を犯したと評価できるかどうかの観点から、判断すべきとする。症状の重い者が主観的要素の点で対象行為該当性を欠くことになり、法の目的に反するからである。
・高橋則夫は、この仮定的判断(心神喪失の状態にない者が同じ行為を行ったとすれば対象行為を犯したと評価できるか)の趣旨につき、(i)対象者の心理の中に、病的な認識を除外した通常人の正常な認識が存在すると観念し、外形的行為からその認識を推認する、という趣旨、(ii)故意を通常人基準で認めれば足りる、という趣旨、と理解しうるが、(i)はそのような認識を認めることは困難であり、(ii)は、犯罪論の原則は医療観察法にも該当するので問題である、と批判する。
・東京高判平20・3・10は、構成要件的故意が、どの犯罪を構成するかを振り分ける契機となる事由として位置付けられるべきものであるから、その契機を果たすのに足りる認識があれば、故意は肯定されてよいとする。
・また同高判は、(殺人罪)行為者が「人の外観を有し、人の振る舞いをするもの」との認識を有していれば、それらを総合して「人」といった認識をもっていたものであろうという推定をすることができる、として、殺人の構成要件的故意を認めた。
判例に対し、浅田和茂は、意味の認識を含む故意を、責任無能力状態で有していたと解することに無理がある、と批判する。また林美月子も、故意は行為者自身の認識の有無によるもので、通常人の認識を問うのは責任主義に反する、とする。
・一方、安田拓人は、立法で「精神の障害に基づく錯誤があったとしても、他害行為は故意に行われたものとみなす」との規定を置くほうが望ましいとしたうえで、現行法の解釈としては、精神の障害に基づく錯誤は考慮しないとするほうが、医療観察法の趣旨にそぐう、とする。

薬剤師の業務範囲の見直し検討へ - 医療介護CBニュース - キャリアブレイン

washitaさんの経由(http://d.hatena.ne.jp/washita/20120615

薬剤師の業務範囲の見直し検討へ - 医療介護CBニュース - キャリアブレイン
 現行法で歯科衛生士は、歯科医師の「直接の指導」の下、予防処置として歯石の除去などを行う「女子」と定められており、男子に関しては、附則の準用規定が適用されている。日本歯科医師会副会長の宮村一弘委員は、男性の歯科衛生士の増加や、修業年限の延長を指摘した上で、女子に関する条文を改めるとともに、「直接」の文言を削除するよう求めた。

これについて、一部方面では「歯科衛生士法はGHQの指示で作られたから・・・」みたいに思われているフシもあるようなのですが、ただ、制定当時は、条文では女子に限定していなかったのです。

歯科衛生士法(昭和23年法律第204号)(制定時)
第2条 この法律において「歯科衛生士」とは、都道府県知事の免許を受けて、歯科医師(歯科医業をなすことのできる医師を含む。)の直接の指導の下に、歯牙及び口くうの疾患の予防処置として左に掲げる行為を行うことを業とするをいう。

これが女子に限定されるのは、昭和30年になってからです。

歯科衛生士法の一部を改正する法律(昭和30年法律第167号)
第2条中「含む。」の下に「以下同じ。」を加え、「者」を「女子」に改め、同条に次の一項を加える。

男子についての準用規定も、この時点で制定されました。
それまで看護婦の職域であった歯科診療補助を歯科衛生士もするようになったのを機会に、事実上女性の仕事であった(資格者は全員女性)歯科衛生士を歯科衛生婦に改める法案を提出したところ、名称変更については修正で削除された、というのが経緯です。
ただ、国会の審議でも再三「歯科衛生士は女性の適職だ」と言われていて、女子に限る扱いについては異議はなかったようです。

第22回国会 参議院社会労働委員会会議録第23号(昭和30年7月7日)
○政府委員(高田浩運君) 当時は実は私この方の関係の仕事に携わっておりましたので、その記憶に基いてお答え申し上げたいと思います。こういう制度は、実はまだ日本ではいろいろそれまでの間に、翻訳その他で言われておりましたけれども、政府の中での考え方としては、こういう形までは熟していなかったことは事実であります。従いまして、この構想というものは、それぞれやはり外国のやり方、外国の実際の運営の仕方ということを中心にして構想を立てざるを得ない、そういうことであったのでございます。そういった観点からいたしまして、実際問題として、この人たちが女であるし、また女の方が望ましい、女の適職であるということは、われわれ関係者十分承知をいたしておりました

法文上は原則女子にすることで、採用条件や学校入学条件の法的根拠となりますから、文言改正には意味があったといえます。